第87話 リリアナの願いと貞操と



公爵は相変わらず外出を繰り返していた。

諸用だと言って王宮に出かける事もあれば、遠方へと出向き、帰りが翌日になることもあった。『』という職業があるとすれば、こんなに忙しいものだろうかと思う。


公爵が白椿の城にこもっていた頃、毎日何をしているのかと問う私に「何もしていない」と言ったことがあった(実際にはきちんと領地の運営をしていたけれど)。

ぼさぼさ髪に無精髭の『ウルフ公爵』だったときは……ひがな一日、書庫室で一緒に本を読んだり、お茶の時間を楽しんだり。半日ほどかけて菜園の土いじりをし、ふたりで両手を泥まみれにして、笑い合って。あの頃は楽しかったな。


遠方に出かけると、公爵は地方の珍しいお菓子やお茶の手みやげを必ず持ち帰ってくれる。忙しくても、遠くにいても、私のことを頭の片隅にでも留め置いてくれるのは嬉しかった。


そんな公爵が、地方遠征に旅行がてら私を同行させたいと言った。

だけど私は私で、週に三度のピアノのお稽古を無碍むげにすることもできず、そ誘いをやんわりと断ってしまった。

お稽古以外の時間は、子供たちが提出した宿題の添削に追われている。それなりに忙しいけれど、顔を輝かせてやってくる九人の生徒たちに会えるのが、今の私の生きがいでもあるのだ。


そうこうしているうちに、一ヶ月などはすぐに過ぎ去り——。

王太子殿下主催の舞踏会の日。


前日の深夜まで遠征に出かけていた公爵とは、丸三日、顔を合わせていない。

それが少し、寂しくもあり……。


朝日が昇り、いつものように部屋での朝食を終えれば、公爵も起きているかしらと気にかかる。

滅多にしないことだけれど、


「……ディートフリートさま、リリアナです」


トントン。

お隣の、公爵の部屋の扉を遠慮がちに叩いた。


「起きていらっしゃいますか……?」


返事はない。

昨夜遅くに戻ったようだし、まだ寝ているのかも知れない。それとも几帳面な公爵のこと、こんな日だからこそきちんと起きて、早朝から執務にあたっているのかも知れない。


どちらにせよ、三日も会えていないのをやっぱり寂しく感じてしまう。

あきらめてきびすを返しかけたとき、ガチャリと部屋の扉が開いた。


「……ぁ」


半分あいた扉から身体を覗かせたのは、モリスでのを思わせるようないでたちの公爵——髪は湯上がりで濡れたまま、はだかの上半身に薄いシャツ一枚を羽織っている。素肌からまだ蒸気が立ち昇っていそうな熱気に混じって、上質な石鹸のほのかな香りがただよった。


「お…、お風呂あがりですよね? 起きていらっしゃるか気になって。突然お部屋を訪ねたりしてごめんなさいっ」


何だか見てはいけないものを見たような気がして恥ずかしくなり、両手で顔を覆って背中を向けた。そのまま去ろうとした私の背中は、勢いよく伸びてきたたくましい二本の腕に羽交じめにされてしまう。


背中を包むあたたかさは、どこか懐かしかった。


「リリアナ」


吐息まじりの艶やかな声が、耳もとで私の名前をささやいた。

たった三日、会えずにいただけなのに……。

私はこのあたたかさを、途方もなく求めていたのだとわかる。


「私の部屋においで」


力強い腕に抱え上げられれば、優しく揺れるエメラルドの瞳と目が合った。

「三日ぶりだな」

横抱きにされたまま部屋の奥に運び込まれ、ソファの上にそっと組み敷かれた。


「あっ……。ディートフリートさま、今はっ、まだ朝ですよ?!」


覆いかぶさる広い胸板を両手で押すのだけど、私の必死な抵抗など公爵にとってはかわいいものだ。

モリスから戻って三ヶ月、こんなふうに何度か『貞操の危機』があったものの、その都度いやいやを繰り返し、今日までどうにか逃れてきたのだ。


んふっ———。


激しく唇を吸われ、呼吸をふさがれくらくらする。

ようやく離れたくちづけに、顔をそむけてどうにか抵抗を繰り返した。


「ディートフリートさま、いけません」

「またなのか。いつまで待てば許してくれるのだ?」

「だって……今日は舞踏会です。お支度を、しなくちゃ……」

「舞踏会は夕刻だろう、支度をするにはまだ早い」


耳朶が喰まれて、変な声が出てしまう。


「ぁうっ……」


「そんな声を出すのに、まだ抵抗をするのか?」

「声、はっ、ぁ……あなたの……せいです」


やっぱり、だめ。

どうにかうまく切り抜けなくちゃ。


私の首筋にキスを重ねる公爵の首根っこを、思いきり抱きしめた。その勢いで無理からに半身を起こせば、仕返しに公爵の首筋にぐっと唇を寄せる。「…!」突然の私の反撃(?)に、驚いた公爵が起き上がり、豆鉄砲を喰らったように目をパチクリさせた。


「リリアナは、いつの間に……ッ、そんな大胆なことができるようになったのだ?!」

「全部、あなたのせいです。ディートフリートさまが何度もっ、こういうことを、なさるから……」


公爵が驚いているのを良いことに、今度は両手で力いっぱい、はだけた胸板を抱き締める。


「この三日間、寂しかったです。ずっと、会いたかったです」

「……会い、た……かった……?」


戸惑いを含んだ公爵の言葉。

面と向かって「会いたかった」なんて言ったのはこれが初めてだ。


「私も! 同じだ、リリアナに会いたかった……とてもッ」


宙に泳いでいた両手が私を大きく包みこむ。


「でも、ちゃんとあなたの『妻』になるまでは……ここまでです!」


強い口調でそう言い切れば。

背中に揺れる髪を、公爵の手のひらがいたずらにくしゃっと掴んだ。指先が背中に当たってこそばゆい。


「またはぐらかされてしまった。私の可愛い奥さんは、どうやらはがねの貞操を持つらしい」


私の髪に鼻をうずめた公爵は、はぁ……と大きくひとつ息を吐き、ひどくがっかりしたように言うのだった。







琥珀色の液体がティーカップに注がれるのを、ソファに座って膝に両肘を立てた公爵は、心ここに在らずといったふうにじっと見つめている。


やっぱり寝不足なのかしら。


今夜も帰りが遅くなりそうだし、時間が許すならもう一度寝台に戻ってゆっくりと眠ってほしい。

なんだか私までぼうっとして、うっかり紅茶をこぼしてしまった。

慌ててこぼれたものを拭いていると、


「覚えているか」


卓上のティーカップを見つめたまま、公爵がつぶやくように言う。


「……ぇ?」

「ヘーゲルリンデに向かう馬車のなかで」


えっと、えっと……。何でしたっけ。


「私がケグルルット伯爵をと言ったのを、覚えているか?」


ぁ……。


「はい、もちろん、覚えています」

「私の指図で多くの者たちが関わり、秘密裏に手を打ってを実行しようとしている。君はケグルルット伯爵の娘だ。全ての手筈てはずが整うまでに、君の意思をもう一度確認しておこうと思ってね。あのとき君は、伯爵を父親だと思う感情も、未練もないと言った。その気持ちに今も変わりはないか?」


いつもは優しい公爵の眼差しがひどく冷たく見えて——少し、怖い。

公爵が深刻な顔をするほど、この話が真実味を帯びてくる。


妹のエレノアは王族に嫁ぐとしても——。


「その画策がされれば、伯爵はどうなってしまうのですか」

「人の子の心を持たぬあの男がどうなろうと知ったものか」


睫毛を伏せたエメラルドの瞳は氷のように冷ややかだ。

公爵がケグルルット伯爵に凄まじい私怨を抱えているのは知っている。


この私だって——あの父親ひとには、これまで散々な目に遭わされてきたのだ。


「ディートフリートさま。もしも私の想い汲み取ってくださるのなら……。そのはかりごとのことで、お願いがあります」




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