第86話 姉と妹




仕立て屋の広い待合いに、わぁ……と穏やかな歓声と溜め息があふれた。


試着部屋から出た私は、何ごとかと周囲を見回す。何に対する歓声なのかわからない、何か事件が起こったわけでもなさそう——。

目の前の綺麗な女性が目を見開くのが見え、慌ててうつむいた。


(私の瞳と髪の色を見て、驚いていらっしゃるのかも知れない)


この店に入った時からそうだったけれど、否応なしに強く、周囲からの視線が刺さる。皆からの注目を集めているような気がしてならず、背筋がぞくっと波打った。


「いかがでございましょう、旦那様」

「うむ……これも良いな。いただこう」


公爵は上機嫌で、一歩下がったところからドレスのサンプルを試着する私を眺めているけれど、もうそれ自体が恥ずかしい ……!


「有難う存じます。では、大変お疲れ様でございました。デザインの確認と採寸は、これで全て、終了でございます」


「なんだ、肝心のを着たところは、見せてもらえないのか?」


「はい。わたくしどものポリシーとして、婚礼のお衣装を旦那様がご覧になるのは、ご結婚式当日までお預けでございます。お楽しみはどうぞ、奥方様の最良の日まで取っておかれますように」

「……なるほど。婚礼衣装を着た花嫁は、当日まで見られぬのだな?」

「さようでございます」


揚々と腕を組む公爵と仕立て屋の女性が何か話しているけれど、注目を浴びる恐怖心にかられる私の耳には入らない。


「婚礼衣装は仕上がりの期日を伝えたが、あとの数着はいつ頃になりそうだ?」

「ご覧のとおり大変混み合ってはおりますが、ご安心を。わたくしどもの抱える優秀な針子たちが、総力を上げて制作に取り組んでおります。王太子殿下主催の舞踏会までには、必ずお仕上げをいたします」


そもそも、どうしてになったかと言えば——。

公爵(と、そのパートナー……つまりは私)が、王太子殿下主催の舞踏会に招待をされたから。


舞踏会用のドレスだけにとどまるつもりが、公爵の購買意欲に火がついたのか、結局、舞踏会用のドレスの他に三着もオーダーすることになった。


ついでにウエディングドレスの採寸をすると言うので、サンプルを試着したのだけれど……。最高級のシルク素材に加え、繊細に施されたレースや装飾のディテールが素晴らしすぎて!


煌びやかなものに慣れない私は、頭がくらくらしてしまう。


ドレスの値段の相場など、私にはわからない。

公爵は平然としているけれど、あの美麗なウエディングドレスだけでも……いったい幾ら?!


「あのう……」


恐々と公爵の後ろで身を縮めているけれど、周囲からの視線にはもうこれ以上耐えられそうになかった。できることならもう一度、試着部屋に逃げ込みたかった。


「あ、あの……ディートフリートさまっ……」


仕方がないので、公爵の礼服の裾を引っ張ってみる。


「どうした。怯えた顔をして」

「皆さんに……見られています」

「ああ、試着に小一時間ほどかかってしまったからな。試着部屋は他にもあるから、リリアナが気を使う必要はないよ」

「そうじゃ、なくて。忌み子の私が……こんな場所に、いては……。皆さんを、不快な気持ちにさせてしまいます……」


私の言葉はだんだん尻すぼみになり、最後には消え入るほどに小さくなった。公爵は目を丸くしたけれど、すぐに柔らかな笑顔を取り戻した。


「リリアナ。周りをよく見てごらん」


公爵の手が、優しく私の肩を抱く。

促され、おそるおそる顔をあげてみれば———。


目を見開いて私を見ていたあの令嬢が、担当の店員にこんな事を言っている。


「私もあの方と同じテイストにしたいわ。お願いできる?」


それを聞いていた別の女性は、


「わたくしも! あれと同じテイストがいいわ」

「畏まりました。それでは、少し装飾を変えてお仕立てをいたしましょう」


もう一度、周囲を見渡した公爵が得意げに言う。


「誰も不快になど思っていない。それどころか、皆が君に憧憬のまなざしを向けている」







帰りの馬車の中でも、隣に座る公爵は機嫌が良く、いつもより饒舌だった。


公爵の気分を損ねたいわけではないけれど、試着を繰り返すあいだ私の心はずっと叫んでいた。

こんな調子で、公爵に散財をさせてはいけないと。


「ディートフリート様のご厚意は、とても嬉しいのですが。私はっ、贅沢、というか……高級なものを扱うことに慣れていないのです。オーダーくださったドレスも、私には……もったいなさすぎます」


うつむく私を見やるも、公爵は毅然きぜんと言葉を紡ぐ。


「リリアナ。知っての通り、私はもう邸に引き篭もるのをやめたのだ。君はこの先、私とともに王宮に出向く機会が増えるだろう。そうなれば、貴族間の社交はまぬがれない」


もちろん、そうなるだろうと理解はしている。


「はぃ……」

仕方がないにせよ、全く望まないことなのでつい声が小さくなってしまう。


「王宮に集う女性たちが見ているのは、相手が身につけているだけだ。勿論、『夫の身分』もその中に含まれる。人からの称賛は、君が抱える鬱屈うっくつを解消すると私は踏んでいる。リリアナが、人前に出るための自信を得るのに必要な散財ならば、それは私にとっても必要なものだよ」


私が抱えた事情を知り、理解をし……散財をしてでも私の鬱屈を晴らそうとしてくれる公爵の気遣いに、また胸が熱くなる。


『夫の身分』をはじめ、素晴らしいものを身につけていることだけが人の評価に繋がるという、貴族女性どうしの関わりには疑問をいだいてしまうけれど。

女性は男性のように仕事で功績をあげるわけにはいかないのだから、仕方がないのかも知れない。


すっと抱き寄せられれば、もうすっかり私の「定位置」になっている公爵の肩のくぼみに額を寄せた。

私の肩を包む大きな手には、モリスでがれた爪がまだ伸び切らず、何本かの指には包帯が巻かれている。


「それに」とつぶやいた公爵の表情が、わずかに曇った。


「君の妹、エレノアが第三王子殿下の妃に選ばれれば、君はあの妹とも頻繁に顔を合わせることになる」


「……ぁ……」


公爵の言う通りだ。

妹は間もなく王子殿下の妃になる。ランカスター公爵の妻として王宮に出向いた私を、エレノアはいったいどんな目で見るのだろう?


「そのためにも、君の味方は多い方がいい。名だたる者たちを招待し、邸宅での『茶会』や『社交会』を再開させよう。エレノアが王宮で君に恥をかかせることなど、この私が許さぬ」


第三王子の妃殿下。その権力がどれほどのものかはわからない。

だけど威厳と自信に満ちた力強い公爵の言葉ほど、頼もしいものはないと思えた。


「エレノアが居たよ」

「……ぇ?」

「リリアナが試着部屋にいるときだったが、仕立て屋の待合に。先日、王宮に出向いた際に、第三王子殿下と親しげに話すエレノアを見かけたのだ。人違いかとも思ったが、馬車受けにケグルルットの家紋を見付けて確信をした」


———エレノアが、あの場所にいた——?


にわかに寒気を覚える。

自分の気づかないところで、見られていたとしたら。


「だがエレノアは、君が試着部屋から出る前に別の部屋に入った。私のもまだ知らぬはずだから、君がいた事には気づいていないだろう」


「そう……でしたか」


その場しのぎができた事に、ほっと安堵したけれど。

来月には王宮での舞踏会で、エレノアと顔を合わせることになるのだ。





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