第90話 *エレノア視点*(3)
「ぇ、今、なにか言った?」
「ヴィヴィアーヌのほうこそ……なにを言うのよ……」
肩を震わせながらうつむく私を、ヴィヴィアーヌが怪訝な顔で覗きこんだ。
「エレノアったら、急に怖い顔をして。いったいどうしたの?」
「あなたが……間違った事を言うからっ!」
うつむいた私の視界の
今もしも顔を上げれば、不本意に目を合わせてしまうだろう。
「ランカスター公爵の……妻、が……『美しい』ですって……? そんなはずが、ないじゃない……」
唇がわななき、うまく声が出せない。それに何かが胸の奥につっかえてひどく息苦しい。
「エレノアったら、本当にどうしちゃったの? あなた何だか変よ?」
「あの髪の色を見てごらんなさい、ヴィヴィアーヌ! あの瞳の色もよっ」
———お姉様は、忌み子なのよ……?
私の荒がった声にヴィヴィアーヌが驚いているのがわかる。
化粧っ気のない乾燥した素肌は一年中荒れていて、赤茶けた鉄錆色の髪は馬の尻尾みたいに後頭部に
「公爵夫人のルビーレッドの髪色が、どうかしたって言うの?」
ルビーレッドですって?! ヴィヴィアーヌったら目がおかしいんじゃないの。そんな《間違い》は私がしっかりと正さねばならない。
「違うっ、あれは鉄錆の…………」
勢いよく顔を上げれば、目のなかに飛び込んできた衝撃に息をのんだ。
ゆるくウェーブがかった腰まで届く長い髪は
陶器のような白い素肌に施された薄化粧の横顔に、長いまつ毛に縁取られたアーモンド型の瞳がまばたきの
薄桃色の紅をさす唇の膨らみは柔らかな弧をえがき、女性たちでさえも溜め息を漏らすほどに愛らしい。
そこにあるはずの忌み子と呼ばれた頃の面影は、あとかたもなく消え失せていた。
———あれが、リリアナお姉様ですって———?
髪色と同色の大きな瞳が、背高いランカスター公爵を愛おしげに見上げている。
『彼の妻』に微笑みかける公爵のまなざしは優しさにあふれ、私に向けられた鋭い眼光とは程遠いものだった。
まるで絵画のような佇まいの公爵夫妻は、談笑を交えながらから壁際から遠ざかっていく。
あとにはヴィヴィアーヌを含めた周囲の人々の溜め息と、羨望の眼差しが残された。
「それにしても素敵な奥様よね……! あのネックレスを見て……『グランディディエライト』。あんな稀少な宝石、国王妃でもなかなか手に入らないわよ。
悔しさのあまり唇を噛みしめた。
高価な宝石がなによ。ドレスの色なんかどうだっていい。
たとえどんなふうに容貌が変わろうとも、あの人の妹だなんて公言などしたくない。
「……いいえ、なんでもないわ」
そうよ、『公爵夫人』がなんだって言うの。
私は『王子の妻』になるのよ?
リリアナお姉様になんか、負けるものですか……!
楽隊の演奏が、曲調をがらりと変える。
再びアナウンスがあり、王太子殿下とニコラウス様が踊り場の奥の扉から姿を現した。
ランカスター公爵は二階の椅子に戻ろうとはせず、彼の妻の腰元に手を添えたまま踊り場を見上げている——もう
「さて……。ここにラインハルト王太子殿下の表明を以て、第三王子ニコラウス殿下の妃となる者を正式に決定する。妃はニコラウス殿下ご自身が選ばれる。候補者は、大階段の前へ」
一度はしんとなった周囲の騒めきが、ふたたび大きく湧き立った。
「エレノアっ……平気?!」
私よりもヴィヴィアーヌの方があきらかに緊張している。
だって平気に決まっている、結果はもう知れているし、何よりこの瞬間をずっと待ち望んでいたのだから。
私を含めた三人のお妃候補者が、大階段の下に一列に並んだ。
いよいよだ。
いよいよこの時が来たのだ。
大階段の前に進み出るとき、通りががりにお姉様と一瞬だけ目が合った。公爵の腕にすがり、私を
———いったい、何に怯えているのよ?
立ち位置が変わったからって、この後に及んで妹の私を見下しているのだろうか。
ニコラウス殿下が、私以外の女性を選ぶのではないか、と。
お姉様に見せつけてやる。
私が踊り場の上の、王子妃の椅子に堂々と座るのを。
「そういえば」
階下のとある貴族女性が、彼女の夫に頬を寄せてつぶやいた。
「王子様の正妃のご表明は、通常、国王陛下がなさるものですのに。今回は王太子殿下が舞踏会の主催だなんて、おかしいですわね?」
「言われてみれば……だな。そういえば国王陛下だが、ここしばらくご公務にも顔を見せていないらしいぞ」
王太子殿下がニコラウス殿下に目配せをすれば、ニコラウス殿下はゆっくりと立ち上がり、大階段を降り始めた。
表情に笑みは無いが、群青色の眼差しは私の方にしっかりと向けられている。
このまま彼は選んだ者の手を取り、皆の祝福を浴びながら、ふたりだけのファーストダンスを踊るのだ。
ああ……ニコラウス殿下。私の王子様。
そのままここにいらして。そして私にその手を差し伸べるの。
ニコラウス殿下が、候補者三名の真ん中にいる私の前に立つ。
いつもは優しい殿下の眼差しが、何だか少し怖く見えて——ぞわりと背筋が粟立った。
群青色の瞳が、私からすっと目を逸らす。
そしてその逞ましい腕を、私の隣で震えながらうつむいていた宰相の娘に差し出したのだった。
———ちょっと、待ってよ。今、何が起こったの———。
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