第61話 とろけるほどに愛されて



突然に冷や水でもかけられたように身を固め、公爵は茫然と虚空を睨んでいる。


「あ……のっ、どうかされましたか……?!急に、顔色がっ」


さきほどまで朗らかに微笑んでいたものが、いきなり変貌したことに戸惑う。

手を伸ばそうとすれば、その手を取られ力強い腕に強く引き寄せられた。


「……ぁ……」


背中に回された腕で肩まで抱かれ、公爵の広い胸のなかに身体がすっぽりとおさまってしまう。

引かれた拍子に羽織っていた礼服の上着が肩を離れ、足元にばさりと落ちた。後頭部を包む手のひらに力がこめられているので、身動きが取れない……!


「あ……の、ディートフリート……さま……!?」


無理からに顔を上げようとするけれど、私の小さな抵抗など公爵の腕の力には到底かなわない。急に、こんなっ……どうして……?


「……リリアナは野花のようにか細いのだな。少し強く抱けば折れてしまいそうだ」


くるしいです、と小さくつぶやけば、私を離さない程度に少しだけ腕の力が緩まった。

代わりに後頭部に更に力がこもり、ゆるく結えた髪が公爵の指先に絡まるのがわかる。やっ…あっ、そんなことを、したら———。


心と身体が慌てふためいていると、突然にふっと腕が緩み、くるしかった呼吸が解放された。だけど私の背中を支える腕はそのままだ。

美麗な面差しが目の前にあって、エメラルドの瞳が見たこともないほど綺麗にかがやく。


「こんながあるのだな……。『あれ』を弾いたのは君だった。私は初めから、君を望んでいた。エレノアではなく君だった。そして私と君を引き合わせ、巡り合わせたものは———」


「あの、……さっきから、いったい何をおっしゃっているのですか?!私っ、ぜんぜん意味が……」


「意味など、今は知らなくていい」


私を映す瞳が途方もなく優しくきらめく。

公爵の手が離れ、まとめていたはずの髪が後頭部から崩れ落ちた。

艶やかな長い髪が虚空を踊るのを見た公爵が「は…」と小さく息を吐く。


「そうやって君はまた、私の心を揺さぶるのだな」

「……?!」


背中を抱く腕は揺るがない。

もう片方の手で私の髪をひとすじ取り上げると、見せつけるようにくちづける。その瞳があまりにも煽情的に揺らめいて——体の奥にかすかな熱が灯るのを感じた。

そうかと思えば、またすぐに背中を押され……今度はゆっくりとやわらかに、再び腕のなかに抱き止められてしまう。


「突然に抱きしめて、驚かせた。だが——堪えきれなかった。この場所がねやならば、すぐにでも寝台に運んで組み敷いていた。そのくらい、今、私は君が愛おしい」


あ……頭が、身体が、心が。ぐるぐる混乱したまま私の思考を止めてしまう。

頬に触れる公爵の胸から躍動的な鼓動が耳に届いて……私はただ、乱れて言うことを聞かない呼吸を整えようとした。


「……お、教えて、ください。どうして、急に……っ」


———こんなふうに抱きしめたり、情熱的なことをささやいたりするのですか。


「君が、愛おしすぎるから。理由はそれだけだよ?」

「そんなの……うそ、ですっ」


公爵の胸を押して身体を離す。顔をそらそうとすれば長い指先で顎を留め置かれ、瞳に優しい微笑みを湛えた公爵の面輪おもわが不意に大きくなる。


反射的にぎゅっと目をつむるのと、唇が柔らかなものにふさがれるのが同時だった。


「……!?」


驚いて目を開ければ一度離れ、もう一度……今度はゆっくりと深く喰まれた。


「ん………っ」


鼻にかかった甘い声が漏れる。

あまい……そう、あまくとろけるような優しいくちづけに、私の『どうして』がゆるやかに融かされて。身体の奥に灯った小さな火種が、みるみる熱く、大きくなっていく。


「んぅ…」


とうとう息が苦しくなって、遠慮がちに胸板を押した。唇を離した公爵の吐息が肌におちるだけで、そわりと背筋にさざなみが走る。


「私っ……何だか、へん、なんです」

「ヘン?」

「身体の、奥の方が、なんです……」


呼吸が荒くなるのを、公爵はクスッと笑う。


「もっとヘンになれば良い。ピアノに触れてみるのは明日にして、ねやに行くか?」


頬がひどく熱く火照っている。鏡で見なくても、真っ赤になっているのがわかる。


「それにっ……顔はこんなに熱いのに、身体が、とても寒いの……」

「リリアナ?」


私を見つめる公爵の顔がぐるぐるするのは、唐突なくちづけのせいではないみたい。私いったい……どうしちゃったの?


「大丈夫か?!」

「ディートフリート様のお顔が、ゆらめいて見えます」


額にあてがわれた公爵の手のひらが、冷たくてとても気持ちいい。なのにはだはだと震え始めた背中にはひどい悪寒がして……。


「っ、熱いな」


リリアナ———

心配そうに揺れる瞳が、私の名前を呼ぶ大好きな声が、次第に遠く、小さくなった。








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