第62話 *ディートフリート視点*
——それを知った瞬間、リリアナ・ケグルルットは私にとってかけがえのないものになった。
私が想いを寄せる愛らしいリリアナは、『星月夜』の奏者だった。
ケグルルットの屋敷で聴いた曲、あれは間違いない——『
かつての奏者であった者がこの世から姿を消したことで、『星月夜』はもう、完全に失われたと思っていた。
もう二度と耳に触れる事は叶わぬと。
記憶のなかで
そもそも楽譜が書かれていないのだから、旋律を知る者の記憶のなかでのみ存在する。
妹のエリアルもいない今、旋律の記憶を持つ者は私の他に誰も思い当たらない。
ケグルルットの屋敷であれを聴いたときは、自分の耳が狂ったのかとさえ思えた。
使用人に尋ねればケグルルットの娘、エレノアが奏じるのだと言う。
幸せだった日々のまぼろしに、せめて今も浸ることができるならば——あの旋律を、『星月夜』の奏者を手に入れたいと思った。
『エレノア・ケグルルットを花嫁に所望する。』
花嫁かどうかなど、どうでも良かった。だがエレノアを私の手元に置くにはそれが手取り早いと考えた。
幸か不幸か、私はケグルルットの弱みを握っている。暗殺の糾弾を恐れるあの男が私の申し出を断ることは出来まい。それにケグルルットの娘とあれば上手く利用して、あの男を責めさいなむ事が叶えば一石二鳥ではないか。
だか——寄越されたのはエレノアではなく、姉のリリアナだ。
ケグルルットへの怒りが込み上げ、情けないことだが自分の感情に収拾がつかなくなって……何も知らないリリアナを唐突に怒鳴りつけた。
今思い起こせば、ひどい第一印象だったな——最悪だ。
はぁぁ。漏れ出した声が思いのほか大きく響いて、慌てて口をつぐんだ。
腕のなかでは横抱きにしたリリアナが、ふっ、ふっ……と小さな寝息を立てている。
熱はあるが、高熱ではなさそうだ。
冷たい廊下を歩いているのだから、冷えて熱があがるといけない、早く部屋に連れ帰らなければ。
リリアナが何故『星月夜』の旋律を知るのか、理由が聞きたい。
それを問う前に彼女は気を失ってしまったが。
慣れないことが続いて疲れさせたところを、私が押さえ切れない欲情を唐突にぶつけたりしたから……度を越した疲労が溢れ出てしまったのだろう。
「くちづけで気絶するなど、愛らしすぎるだろう……」
リリアナの部屋があと数十歩と近付いた辺りに、黒い人影が
「あぁ、公爵。いったい何処にいたのですか、随分探しましたよ」
「リュシアン、なんだ、お前まで
来なくてもいいのに……と、内心で毒づく。
「公爵不在の城に
「馬鹿を言うな。私だってわきまえている」
腕の中で眠るリリアナに、リュシアンは冷ややかな視線を落とした。
「それは、どうしたのです?」
「私がこんな時間まで連れて歩いたものだから、疲れが出たようだ」
私の胸に頬を寄せるリリアナの無邪気な寝顔を見れば、溢れるほどの愛おしさが込み上げる。
「この寒空に
「お前が言うように、私は熱にほだされているから、身体は暑いのだ」
わざと皮肉を込めた事を言ってみれば、
それにしても、ランカスター公爵家の宿敵とも言える『ケグルルット』の名を持つ者を、私がこんなに強く想い初めることになろうとは——先代の片腕として力を尽くしたリュシアンにとって想定外だろうし(この私だって想定外なんだ)、気に入らぬのも理解はできる。
「それで。私を探していたようだが?」
「ああ、はい。先ほどこの様な書簡が届けられまして」
「書簡なら部屋に届けておいてくれ。それをわざわざ見せるために、私を探し回っていたのか?」
「公爵、それが……」
リュシアンが手元の白い封筒の裏を返す。
差出人の名前はない。だが小ぶりながらも金箔で花の螺旋が
『薔薇の花に蜂鳥』。
リュシアンの様子を見れば、彼も気付いているのだろう、手紙の差出人が誰なのかを。
「……どう言うことでしょう!?」
「構わない、開いて見せてくれ」
両腕がふさがっているので、開封をリュシアンに委ねた。得体の知れない胸のざわつきに内臓が押し上げられる。
蝋留めが剥がされ、リュシアンが広げて見せたカードに綴られた、ただひとつの文言に息を呑んだ。
『あなた、まだ死んでなかったのね』
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