第63話 恥じらう心に甘いキスを



*こちらは追い砂糖のおまけストーリーです*

(4000文字ほど)


甘めです。

飛ばしてくださっても本編には影響しません。



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「ん……」



鼻にかかる声をともない、まぶたをゆっくりと持ち上げれば、光が目の中に滲み入ってくる。

壁に沿って灯された、燭台のオレンジ色の薄明かりさえもまばゆく感じて、一度開いた目を再び閉じた。

しんと冴えるような静けさのなか、暖炉で燃え盛る火のパチパチという音だけが耳に届く。窓の外はまだくらく、夜の帷は降りたままだ。


いつから、そしていつの間に——こんなに深く眠ってしまったんだろう。


頭の中が曖昧あいまいでスッキリとしない。

重いまぶたをもう一度持ち上げてみる、今度は大丈夫、もう眩しくはなさそう。


すぐそばに人の気配がしてまばたきをすれば、寝台の真横、そこにあるはずのないものが寝ぼけた視野のなかに飛び込んできた。

長い足を組んでスツールに腰をかけた公爵が、読んでいた本から私に視線を移す。


「起きたのか?」

「ディートフリート様っ、そこで……何をしているのですか……」


寝台から少し離れたところにある鏡台の、大きな鏡の前に鎮座しているのは、編みぐるみの『オオカミ公爵』。

間違いない、ここはやっぱり私の部屋だ。

上半身を起こそうとするけれど、身体がすこぶる重くて思い通りにならない。公爵が立ち上がり、私の背中を支えてくれた。


「無理をするな、少し前に熱が退いたところだ」


柔らかなクッションを背中にあてがわれ、そのまま寝台の背もたれに身体を預ければ、背中の重力がなくなりホッとして。

寝具の上に落ちたタオルを公爵が冷や水に浸して絞ってくれるまで、額からそれを落としたことにすら気付かなかった。


(……って、甘えている場合じゃないのでは!?)


「私っ、熱があったのですか?……私が使ったタオルを洗っていただくなんてっ……」

「病人がそんなに気を遣うな。私が勝手にしているのだから」

「病、人……」

「リリアナは熱を出して倒れたのだ。覚えていないのか?」


公爵から受け取ったタオルに触れれば驚くほどに冷たくて。もしかして、と公爵のそばを見遣れば、サイドテーブルの上に氷水を張った器が置かれている。


「こ、このタオルっ。氷水で絞ってくださったのですか?!」


窓の外は一面の雪景色。

暖炉に火が焚かれているとはいえ部屋のなかはうすら寒く、氷水に手を漬けるなんて考えただけでも背筋が凍る。

目の前に伸びてきた大きな手のひらが、私の額にそっと触れた。


ひ、……あっ。


「うむ、熱は完全に下がったようだな」

「ディートフリート様、ゆ、指先が冷たいですっっ」

「ああ、そうか。冷たいな?それはすまなかった」


少し慌てた風に額からすっと引かれそうになる公爵の指先を、両手で捕まえる。きれいな長い指先をぎゅっと握れば、やんわりと握り返された。


「ち、ちがうんです……指先がこんなに冷たくなるまで、私を介抱してくださっていたなんて……」

「戦場にいた頃は、真冬でも冷や水をかぶって身体を清めたものだ。この程度のことはなんでもないよ」

「でも……ここは戦場ではありません、私のお部屋ですっ」


冷え切って赤くなった指先を、両手に包んであたためる。ああ冷たい!ほんとうに。


「……裂傷痕きずあとだらけで、気味が悪いだろう?」


公爵の手(普段は手袋はめている)を、こんなにまじまじと眺めたことなんてなかった。確かに……よく見れば白っぽい線のような傷痕きずあとが幾重にも重なっている。

紙でちょこっと切っただけでも焼けるように痛いのに。刃物が何度もかすったなんて……どれほどの痛みかと想像すれば、いたたまれなくて胸が詰まった。


「きずあとなんて無いですよ?とっても、綺麗です……」


本心だった。

男性にしては繊細で、だけど形よく筋張っていて。指先まで抜かりなく手入れされている公爵のこの手がとても好き。


だた握っているだけでこんなにドキドキするんだもの、私——実は手フェチなのかしら。

あっ、でもでも……公爵の声も好きだし、お顔も……好きだしっっ……だとすれば、いったい何フェチ?


「リリアナ」


両手でつかんだ手のひらを凝視しながら、私がいつまでもそれを離さないので、痺れを切らした公爵が私の指先をもう一度、今度は強く握りかえした。


「こんな手なんかを相手に。君はさっきから、何を呟いているんだ?」

「ええっ、私……何か言いました?」


公爵の頬が緩み、形良い口元が柔らかな弧をえがく。


「この手が好きだとか、声も好きだとか」



———うそぉぉぉっっっ



無意識に独り言だなんて。私の頭、完全に熱にやられてしまったのでは?!


(は、はずかしすぎます……。穴があったら入りたいとはまさにこのこと……)


「あ、あの、あの、あの、それは……っっっ。き、気にしないでください、忘れてくださいっっ」


公爵の手のひらを押し戻し、両手で顔を覆う。公爵の顔をこれ以上見ていられない!


「なんだ、忘れてもいいのか。あれは本心じゃないと」

「 ぇ?……ぁ、いえっ……もちろん、本心ですけど……」


(ああ、今、クスッと笑いましたね?!)


そう言えば、このタイミングで。更に動揺することを思い出してしまった。


———私……ピアノのお部屋で公爵と、き、き、キス……っっ?!あれは夢じゃ、ないですよね……。


は、はずかしくて顔を上げられないっっっ。

照れ屋のはずかしがり屋は公爵じゃなく、私のほうだ。


「リリアナ?」


公爵はこんな私にあきれているに違いない。

とうとう名前を呼ばれてしまったけれど、顔を覆った両手が離せない。きっと耳まで真っ赤だ。


ギシ……。


スプリングが沈む音をたてて寝台が揺らぎ、すぐそばに人の気配を感じる。椅子から立ちあがった公爵が寝台に腰を掛けたのだ。

すぐに凛々しい片腕に抱き込まれ、両手で顔を覆ったままの私は、広くてあたかい胸板に包まれる。


「一人でつぶやけるほどに回復したのだな。これで私も、ようやく眠りにけそうだ」


——いったい、今は何時なのですか。早くお部屋に戻って、ゆっくりお休みになってください……私の心臓が壊れる前に。


「いつまでもそんなふうに隠していないで、そろそろ愛らしい顔を見せてくれないか」


(むうぅ。その声で甘いこと言うの、やめてください——っ)


観念して両手をひざのうえに下ろしたものの、顔を上げることができない。

だって私、茹でダコだもの!


「……もう、嫌です」

「ン、どうして?」

「顔を……見られたくないです……。あなたにこうして抱きしめてもらって、ドキドキしすぎて、どんな顔をしているのか自分でもわからないのです。変な顔をさらして、ディートフリート様に嫌われたくないです」


公爵の腕のなかでクイッと顎を持ち上げられ、優しく揺れる美麗な眼差しが私を捕らえた。

こんなに恥ずかしいのに、すぐにでも顔をそらせたいのに。胸の奥が突かれるように痛んで——みじろぎもできなくなる。


そんな私の耳に届いた、切なさのこもった溜め息まじりの声。


「君の熱は下がったようだが、私のほうのは上がる一方だ。もうこれ以上、私を惑わせてくれるな……」


腰元に添えられた腕にグッと引き寄せられる。

あっ。思わず漏れた小さな声は、頬に感じた熱い吐息にかき消されてしまった。


触れない。だが———」


エメラルドの瞳に燃えるあおい炎が、私の虹彩をいっぱいにする。


「そんな格好をされたら……自制が効かなくなってしまう」


わ、忘れていました——私、明け透けな夜着を着てるのでしたっっ!


寝具に寝かせてもらった時にだろうか、羽織りはすでに剥がされている。薄いレースの夜着が一枚、肌の上に張り付いているだけ。

胸元も背中もあらわになって、公爵の腕のなかでどうしようもない恥じらいに震えている。


「こんなに愛らしい君を前にして、私はいつまでこらえられるかな」


耳元に掛かる髪を指で梳かれたと思えば、お顔がもっと近づいて……くちづけをされるのかと身構えれば、耳朶みみたぶに優しいキスを落とされて。ふぁっ…声が漏れそうになった。


チュッ。あまい音が、吐息とともにすぐそばにある私の耳に届いた。

次は頬に、そのあとは首筋に……あまい音をたてながら、あたたかくて柔らかなものが触れてくる。


(きゃぁ、っっっ!!)


「おやすみ、リリアナ」


首筋に熱い吐息を残した唇が、大きな手のひらが。

凛々しい腕が、私から離れていく。


———ディートフリート様………あぁ。


離れたくないです。

ほんとうは、まだ一緒にいたいのです。心臓が壊れたってかまいません。

一緒にいて、色んなことを話して、もっともっと、理解をし合って。

心のままに触れ合って、そして、そして。


「あ、の……っ」


けれど意気地なしの私はそれを伝えることができない。


「そばに、ずっとついていてくださって……有難うございます」


苦しまぎれに放った言葉。

肩越しにほほえみ、手を振った公爵は、広い背中を私に向けて部屋を出て行ってしまう。


———『おやすみ』。


公爵の言葉が今夜ほど、こんなにも切なく響いたことは無いのだった。


頭から、がばっと寝具をかぶる。


明日が来れば。

身体の奥のほうからぞわりと湧き上がるこのな気持ちだっておさまるだろう。

公爵への想いを封じ込めるように、ぎゅっと力をこめて、目を閉じた。


明日が来れば……。


公爵のもとに届いた手紙の主と対面することになるなんて。

いとも簡単にずけずけと、純粋な恋心に踏み入られることになるなんて。

公爵との関係性が、壊れかけるような事態になるなんて。


そんなことを、つゆも知らずに。



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