第72話 リュシアンの涙(加筆修正版)
拙作を読み進めていただき、有難うございます。
《第72話》リリアナを見送るリュシアンのくだり
加筆と修正をいたしました。
リュシアンの『娘』について、ご理解をいただけましたら幸いです。
(尚、今後ジャクリーンが登場する予定はありません)
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「——リリアナ様っっ」
息を切らせたユリスが走り寄り、
「これを……」
シルバーミンクのフードが揺れる、桜色のコートを羽織らせてくれた。
「ユリス、わざわざありがとうっ」
「リュシアン様が馬車をご用意なさっていますが……イレーヌ様と桟橋まで行かれるのですか? できることなら、私もご一緒したいところですが……」
「ふふっ、そうね。モリスにいるあいだに、ユリスとも一度ゆっくりお散歩がしたいわね」
フードの襟元に顔を埋めると自然と頬が緩む。
公爵が選んでくれたお気に入りのコートは、柔らかくてふわふわで可愛くて……それにとてもあたたかい。
「リリアナ様……」
ユリスもリュシアンも、ふたりそろってぎゅうっと眉根を寄せている。
彼らの後ろを覗けばイレーヌ王女の騎士たちの背中があって、その先に、壁に掛かった絵画を興味深げに眺める背高い王女の姿が見えた。
「ふたりとも、そんなに怖い顔をしないで? イレーヌ様を送ってさしあげるだけよ?」
精一杯の笑顔を披露する。
胸の内に湧き上がる不安を悟られれば、ふたりをもっと心配させてしまう。
大丈夫。
「それよりもリュシアン、さっきは私のこと、かばってくれたでしょう?」
「……庇、う?」
「イレーヌ様に、私は何も知らないから、部屋に帰らせてほしいって」
「それは……。あなたに対応をさせて、イレーヌ様に失礼があってはならないからです」
リュシアンは、言葉だけでなく身体をはって訴えてくれた。
王女に余計な口利きをすれば、不敬に問われてリュシアンが処罰を
「本当に、それだけ?」
「………」
「ほんとうは私のことを、気遣ってくれたのでしょう?」
私とユリスが顔を覗き込めば、リュシアンは言葉を詰まらせ、気まずそうに目を泳がせた。
初めは私のような忌み子が公爵の婚約者としてやってきて、納得がいかず、リュシアンにはひどく嫌われていると思っていた。
でも———。
「リュシアン、私ね……ちゃんと知っているのよ。時々ハーブにお水をやってくれているでしょう? 私の好きなお花をこっそり菜園に植えてくれていたり、新しい本を書庫室に入れるよう指示を出してくれたり……
「リュシアン様、そうなのですか?!」
ユリスが驚いたそぶりを見せると、気恥ずかしいのだろうか、急にそわそわし始める。
リュシアンとユリスの見慣れた顔は、何も変わらないはずなのに。
なぜだかひどく寂しい気持ちが押しよせて、心の中いっぱいに波打っている。
それはきっと、ふたりがいつもと違う表情をしているから……まるで遠くに行く私にお別れの挨拶でもしに来たみたいに。
こんなふたりの顔を見ていれば、私まで感傷的になってしまう。
「いつもありがとう……リュシアン。あなたは優しい人よ。とても感謝しているわ」
いつかリュシアンに、お礼とともに自分の素直な気持ちを伝えたいと思っていた。
ぎゅうっ。
心を込めて告げながら、リュシアンの腰元に腕を回して抱きしめた。
私の一方的な好意だけれど——とにかくそうしたかった。
公爵が身につけている着衣によく似た、リュシアンの白い礼服の胸元はちゃんとあたたかい。
顔をあげて心からの笑顔を向ければ、リュシアンは戸惑うような表情をして。
頬は紅潮し、目を
いつもはすぐに顔を背けるのに、今は少し違っている。
見上げる私のことをじっと見据えている。
「……すまない、ジャクリーン……」
見開かれたリュシアンの翡翠の
(ぇ……どうして、涙っ?!)
白い手袋の震える両手が私の頬に触れようとする。けれど突然何かに気付いたように両手を引き、すばやく視線を逸らせてしまった。
「ジャク……リーン?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「ああ、いえ……。私の、娘の名です」
一瞬、耳をうたがった。
今のっ、聞き間違いじゃないわよね……?
天涯孤独を貫いて、仏頂面で表情にとぼしくて、恋とか愛とかどこ吹く風っぽくて、盆栽を愛でることだけが僕の生きがいですっ!みたいなリュシアンに……。
「お、お子さんがいるの?!」
「ランカスター家にあなたが来てから、同い年だった娘の姿が……あなたと重なって見えるのです」
将軍様さながらのハの字型をした口髭と唇を、かすかに震わせているリュシアンは——。
「リリアナ様。私はあなたに接することで取り乱してしまう自分を恐れ、目を逸らせて冷たくあしらった。あなたへのこれまでの仕打ちは、本当に……申し訳なかったと……」
「仕打ちだなんて、そんなっ。謝らないで? 私、なんとも思っていないわよ?」
リュシアンが感情的になるのを見たのは初めてだ。うつむいてはいるけれど、片言じゃなく、こんなふうに話してくれたのも。
私とお嬢様の姿を重ねてしまうだなんて。
それほどリュシアンは、お嬢様のことを大切に思っているのね。
でも……どうして泣いたの?
あなたのお嬢様は、今どこに……。
私の最後の言葉を遮るように、イレーヌ王女の金切り声がかぶさる。
「何をごちゃごちゃ話しているのよ!? このわたくしを待たせて外出の支度をするのに、いったいどれほど時間がかかるの!」
階下の車寄せには一輌の馬車が控えていた。
訪れた者たちを見守る白椿の花々が、雪帽子をかぶって揺れている。
イレーヌ王女を見送るべく、別荘に同行していた八人のメイドが総出で一列に並んでいた。
彼女たちが深々と頭を下げるのを当然のように見て、扇子で口元を隠したイレーヌ王女は不機嫌そうに目を細めた。
「リュシアン……! 馬車は必要ないと言ったはずよ?! 今は歩きたい気分なの、言いつけはきちんと守りなさい! 聞こえなかったの?! 馬車は不要よっ、何度も言わせないで!」
御者が慌てて馬車の扉を閉めた。
声を荒げた王女の苛立ちが伝わってくる。
私たちが待たせたことで、すっかり機嫌を損ねてしまったようだ。
イレーヌ王女を先頭にして、黒い馬の手綱を引いた護衛の騎士ふたりがあとに続く。
二人とも長身で、黒っぽい隊服が似合う美丈夫な騎士様たちだけれど、無表情で目だけを鋭く動かせて……。
ガチャガチャと剣の鞘を鳴らして、なんだか怖い!
両端に整然と木々が立ち並ぶ小道には、数センチほどの積雪があるけれど、歩くのに支障はなさそうだ。
「早々のお帰りを……お待ちしております」
リュシアンの掠れた声。
イレーヌ様を見送るだけなのに、何をそんなに心配しているの?
「リュシアンったら、顔がお葬式みたいよ? ユリスも笑って見せて……」
王女の背中を確認してから、茫然とたたずむリュシアンとユリスに笑顔で手を振った。
「ちょとそこまで行ってくるわねっ!」
——— 雪が降りはじめたら、城の外に出るな……絶対に、だ。
あれほど止められていたのに。
言い付けを守れなくてごめんなさい。
離宮でいったい何をしているのですか?
何も言わずに行きっばなしなんて酷いですよっ。
イレーヌ様を、リュシアンはとても怖がっているみたい。
誰かを殺めたとか自害だとか……恐ろしい言葉も聞きました。
ちょっと強がってみましたけど、本当は私もっ、足が震えているんです。
ディートフリート様……
早く会いたいです。
優しい声が聞きたいです。
「もう大丈夫だ」って……ぎゅっと抱きしめてほしいです。
私たちを見送りながら拳を強く握り直して、リュシアンが
———馬車を出せればまだ良かった、それが救いになったかもしれぬ。だがもうこれで、リリアナ様を城に連れ戻すすべが無くなった。
「リュシアン様、それはどういう……!?」
「私の娘——正しくは私のかつての主君であるが、実の娘のように愛していた——ジャクリーンは、イレーヌ王女の指示によって理由もなく殺害された。だた楽しむために殺す。イレーヌ様にはそういう『性癖』があるのだ」
「なんて事………」
リュシアンの告白の衝撃に息を呑み、ユリスは震える両手で口元を覆う。
「このまま何も起こらねば良いが」
「私がリリアナ様を、馬車でお迎えに……!」
「イレーヌ様の目があるうちは馬車は出せぬ」
翡翠の
「我々が今できるのは、公爵とリリアナ様をただ待つことだけだ」
モリスの湖畔を覆う灰色の空一面に、音もなく粉雪が舞っている。
少し経てば風の勢いが増し、粉雪はじきに湿り気を帯びた吹雪に変わるだろう。
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