第81話 雪山の一夜(後)



《続・雪山の一夜(前)》




コンプレックスを持つ背中を向けているのも気が引ける。

公爵に、を見られてしまったのは明白で。


不意に思い起こせば、急激に沸き起こったくらい感情が重い首をもたげはじめた。


「ディートフリートさま……っ」


胸元に寄せた外套を力をこめて抱きしめる。

行き場のない負の感情を、胸の内に押しやりながらうつむいた。


「私の背中のあざを、ごらんになったでしょう? 何の痣なのかも、もうご存知なのでしょう……? はずかしくて、とても辛いです。私がみにくいから、さきほども私の身体に触れるのを、躊躇ためらわれたのではないですか? こんなみにくい身体を持つ私の夫になったりしたら、生涯、後悔するのではありませんか……」


長い年月ときをかけて胸に降り積もったおりが、言うつもりもなかった言葉が、私の意思に反して不躾な口からあふれ出てしまう。


「こんな醜悪なものを……ディートフリート様に見られるくらいなら。身体に触れるのを、躊躇ためらわれるくらいならっ……。あの雪のなかで、死んでしまいたかった」


こんな事を言えば公爵を困らせてしまう。

恐ろしいひょうの中を、命懸けで救い出してくれたのに。

ひどい事を言っているとわかっているのに、口から溢れ出すおりは止まらない。


「突然、何を言い出すのかと思えば」


公爵が言葉を放つたびに、耳にかかる吐息にうろたえてしまう。

私を包む両腕に力がこもる、抱きしめられている背中が熱いくらい。


「私の胸の傷を見ただろう? この腕にも、背中にも、腹や両腕、両足にも、おぞましいほど多くの傷跡が残っている。だからと言ってリリアナは、私に触れるのを躊躇うのか?」


た、ためらうどころか、くちづけてしまいました……。


「触れるのを躊躇うだなんて、そんなはずがありません」

「むごい傷跡きずあとだらけの私の妻になったら、後悔をするのか?」

「し、しませんっ……! それに傷跡は、ディートフリート様が辛い痛みに耐えた勲章ですっ。だから……とても、いとおしいです」


「ならば、わかるだろう?」


耳もとの吐息が離れ、柔らかいものが、今度は背中に押し当てられた。公爵の唇が、私の背中のあざに触れたのだ。


———ふ、ぁっ。


くすぐったいような恥ずかしさに肩が跳ねる。


「私もこの痣が愛おしい。リリアナが身体と心の痛みに耐えたあかしだからだ。手で触れるだけでは足りない、何度でも、口付けをしたい」


優しい唇が背中を這い、チュッ…あまい音が耳に届く。


公爵の唇が触れたところに点々と火が付いて、身体の奥にいくつもの熱がまた灯りはじめる。一度灯った炎が冷えることはなく、それどころか、湧き上がる感情で心がいっぱいになって、とても苦しい!


「リリアナ……私は、君が大事なんだ。欲望のままにこの窮状で君を抱いても、初心の君ににがい想いをさせるだけだ。この嵐をやり過ごし、リリアナを安全なねやの寝台の上に寝かせる。王都に戻り、早急に式を挙げよう。そうなればいつでも、リリアナをこの胸に抱いて眠ることができる。その一心で、今は耐えているのだ。私のこの苦心を……察してくれ」


公爵の言葉を聞くうちに、おりを洗い流す涙が、ぽろぽろ頬を伝いおちた。嬉しくて溢れる涙があるなんて、公爵に出逢うまでは知らなかった。


「ディートフリート様のお気持ちも知らずに、私、ひどい事を……。本当に、ごめんなさい」

「本心だけを言えば、抱きたい。今すぐに」


甘くささやかれ、首筋に優しいキスが落とされたとき。

「 はぁっ」吐息と一緒に声が漏れた。

自分の声のはしたなさに驚いてしまう。


「身体に秘密があるところも、リリアナと私は似ているな。やはり似た者同士だ」


ディートフリート様が愛おしい。

強く抱きしめて欲しい、くちづけて欲しい。


こんなふうに思ってしまう私は、やっぱりだ。


「……眠れそうか?」


私を映すエメラルドの瞳を肩越しに見上げれば、もっと胸が苦しくなって。


「眠れ……ません」

「刺激するようなことは、もうしないから」


「お願いが……あるのです」


少しのあいだ沈黙が流れた。


「あ、の……っ」


私の耳もとに頬を寄せて、公爵が次の言葉を待っている。


「……キスして、ほしいです」


「え、っと、キス?」

「唇……に……っ」


沈黙が続いて、公爵が『絶句』しているのがわかる。

突然ヘンなことを言い出した私に、呆然としたのに違いない。


「す、すみません! 今のっ、忘れてくださいっっっ」


公爵が口もとに拳をあてている。


「ディートフリート様は、さっきから笑ってばかり……。これでも私、必死なんです」


はずかしいっっ、それに泣きそう。


自分からキスの催促など、とんでもないことをしてしまった。

消えてしまいたい、地中深くまで穴を掘って、今すぐにでも飛び込みたい……!


茹でダコになってうつむく私に、


「リリアナ」

許しを乞うように、熱を帯びた低い声が耳もとでささく。


「こっちを向いて?」


おもむろに、後ろに顔を向けた私が不安な視線で見上げれば、エメラルドの瞳が見たことないほど優しくきらめいて。


そのまま額と額を合わせて、互いに目を閉じた。


「キスなど欲しいだけ、幾らでもしてやる……」


唇が重なり合って、わずかに開いた唇の隙間を、優しい舌にゆっくりと押し開かれる。

次第に深くなるくちづけ——上顎の奥を突かれ、肉厚の舌に唾液ごと絡みとられる。


感情のこもった穏やかなくちづけに、身体の芯まで溶かされてしまいそう。


傷跡だらけの力強い両腕を、胸の前で抱きしめながら。

心のなかでつぶやく……幸せだ、と。






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