第80話 雪山の一夜(前)



大切なくだりで、二話分を公開いたします。

一話におさめるつもりが長くなってしまいました。

どうぞ最後まで楽しんでいただけますように。

いつも本当に有難うございます!




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———震えている。



そう自覚をした。

怖いのだろうか……こんなに大好きで、大切な人のことを。


怖いだなんて、そんなふうに思いたくはない。

これから起こりうるのは未知の領域なのだ。想像もし難い。


(きっと、平気よ……?)


私を組み敷いている公爵が怖いのじゃない。

これから起ろうとしていることが、怖いのだ。


き上げられた宵闇色の髪の下の、ゆらめく瞳のかがやきの中に激情を見たとき——身体の奥に、ひそやかな熱が灯るのを感じていた。


正直な心は、怖くてこんなに震えているというのに。頬は火照り、胸の奥底では公爵にふれられることを望んでいる。

強く抱きしめられ、むさぼるようにくちづけされるのを待っている。


矛盾するこのな気持ちは……いったい何だろう?

ほんのわずかなこの時間は、永遠にもとれるほどに長い。


公爵の額に留め置かれていた片手が、私に向かって伸びてくる。


「ぁ……っ」

反射的にぎゅっと目をつむった。

大丈夫だと、怖がる心に言い聞かせる。

公爵はいつも、壊れものを扱うように、とても優しくふれるのだから。


白い手が迫ったはずなのに、なぜだか人肌が押しあてられた。

驚いて目を開けると、手首で私の頬にふれた公爵が、つぶやくように言う。


「身体はこんなに冷えているのに、頬は熱いのだな?」


そして忌々いまいましいものでも見るように、自分の指先をにらむのだ。


「この手は致命的だ……」


眉をひそめて首をかしげる公爵は、壊れた玩具オモチャを眺めて落胆する幼子おさなごのよう!

その様子を見れば、胸を突く緊張と恐怖心で固くなっていた心がほぐれた。


「なんだか……。赤くにじんだ包帯って、収穫祭の仮装みたいですね?」


ふふっ。

思わず笑みがこぼれてしまう。

私ったら、このタイミングで笑うなんて!


慌ててそう思ったのと、眼光をゆるめた公爵が、包帯の手をひらひらさせて朗らかに笑ったのとが同時だった。


「リリアナの言う通りだ。こんなていたらくでは、生きた死人にでも扮して、菓子を求めて王都を練り歩かねばならぬな?」


包帯の片手で、額の髪をうっとおしそうにすくい上げる。今度は自嘲するように微笑わらい、公爵は身を起こした。

腰の辺りにまとわりついている外套を広げ、私に掛けながら、


「これ以上、身体を冷やさぬうちに。私が今すべきことは、リュシアンが来るまで、リリアナを冷やさぬことだ」


そう言って、脱ぎ捨ててあった礼服の上着を拾い上げ、素肌の上に羽織る。

きょとんと見上げる私に、すっと手を差し伸べた。


公爵の瞳にはもう、野獣のような鋭さはない。代わりにいつもの柔らかな微笑みが、差し伸べられた手の上から見下ろしていた。


「……ぇ……?」


このまま起き上がってしまうのが、なんだか少しだけ寂しいような。


この気持ちは、なに———。


「私、やっぱりです」

「ン?」

「ぁ……いいえ、何でもないです! えっと……。準備をしますから、ちょっと待っていてくださいね?」


よいしょ。公爵にかけてもらった重い外套を、ぐいっと首まで引っ張りあげて。

「完全防備できたので、これで大丈夫です!」にっこり笑って公爵の手を取れば、あからさまに含み笑いをされてしまった。


「ぇ、どうして笑うのですか?!」

「いや……ちょっとだけだよ。おいで」


「ひあっ!」


公爵が私を引き起こしたと思えば、いきなり横抱きにされる。気付けば公爵の腕の中から、揺れる床板を見下ろしていた。


狭い小屋のなか。抱え上げられ、どこに連れて行かれるの? 


灰色の大きな外套がいとうの端っこが床を擦っている。けれどそんなものは気にも留めずに、公爵は足を進める。

すぐ目の前にある秀麗な面差しが大写しで、私の心臓はいよいよ壊れそうに高鳴った。


狭い小屋の中なので、移動は少しだけ。

規則正しい振動に揺られる心地よさも、すぐにおしまいになってしまう。


床の上に私を下ろすと、公爵は柱を背にして胡座あぐらをかいた。

両手を広げて「おいで」の姿勢をとる。ためらいがちに従えば、背中に覆いかぶさる公爵の、ひだまりのような体温が伝わった。


雄々おおしい二本の腕が、胸の前でクロスして。

私を、外套ごと包み込む。


「リュシアンも此処ここを知っている。身を守れる場所はこの辺りに他には無いから、吹雪が止めばすぐに駆けつけて来るだろう。それまで、私に身を預けて眠るといい」


耳もとに吐息がかかり、背中にそわりとさざなみが立った。

無防備な肌に柔らかいものが押し当てられる。

剥き出しの肩に、深く一度、くちづけされたのだとわかった。


待って———。


これでは、ふたりで横になっていた時よりもっと、どきどきしてしまう!




《続・雪山の一夜(後)》



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