第82話 夜明け






リュシアンがあんなに泣くなんて。


昨夜ひどく荒れた空には、灰色の厚い雲が広がっている。雲間から漏れた朝日が寝室の窓に差し込みはじめた。

湯浴みを済ませ、鏡台の椅子に腰をかける私の髪を、ユリスが柔らかなタオルで丁寧に拭いてくれている。


「リュシアン様は一睡もせずに、空模様を伺っておいででした」


それを知っているってことは、ユリスも寝ないでいてくれたのね。


「外に出るのはまだ危険だと皆でお止めしたのですが、ひょうが止んですぐ川縁かわべりに向かわれたのです」

「ディートフリート様を心配するのはわかるのよ? でも、リュシアンったら……」


公爵が外套がいとうでくるんだ私を手離せば、次の瞬間にはリュシアンに強く抱きしめられていた。

精悍な面輪を、涙でぐしゃぐしゃにして、声をあげて泣くリュシアンに……!

公爵も驚いていた。それにいつもなら綺麗に切り揃えれているはずの口髭が、少し伸びていたのが印象的だった。


「ううん、なんでもないわ」


こんなことを話したら、ユリスのリュシアンに対する見方が変わってしまうかも知れない。あくまでもリュシアンは、メイド達をはじめ全ての使用人から畏敬される人物なのだから。


リュシアンが泣いたのは、お嬢さんの面影を私の中に見たからなのかもしれない。リュシアンはお嬢さんと私を重ねてしまうと言っていた。だからえて私を冷たく遠ざけていたのだと。


もしかすると、もう長いあいだお嬢さんに会っていないのかも知れない。


(何か、会いたくても会えない事情があるのかも知れないわね……?)



「打ち身や擦りむいたところは痛みませんか? お二人がご無事で、本当に良かったです……」


私の髪をとかし終わったユリスは、くしを手に持ったまま、目頭を押さえている。


「リリアナ様は、私の大切な『お友達』ですから……!」


ユリスに会って間もない頃、話し相手になって欲しい、『お友達』になって欲しいと言ってせがんだ。

ユリスはいつだって優秀なメイドだ。得体の知れない公爵の人質だった私に、無理なことを頼まれたものだと困り果てたに違いない。

だけど、いつもそばで私を気遣い、見守ってくれている。

恋愛指南は数知れず……だって私が安心して『恋バナ』ができる相手は、ユリスしかいないのだから。


鏡台の椅子から立ち上がり、目頭を押さえてうつむくユリスをそっと抱きしめた。


「嬉しい……。有難う、ユリスっ」



ひょうは、まだ空が薄暗い明け方近くに降り止んだ。


猟師小屋の扉が開かれたとき、(あろうことか!)私は公爵の腕のなかで浅い眠りに就いていた。


公爵が、私と一緒に眠ったのかどうかはわからない。

リュシアンの叫び声で私が目を覚ましたとき、公爵はリュシアンの問いかけにしっかりと受け応えをしていた。

ずっとあのまま、眠らずにいたのかも知れない。


『全て終わったのだ。』


手の怪我の理由を話したあと、公爵はそう言った。

あの時は気づかなかったけれど、冷静になった今は、イレーヌ王女との確執のことを言ったのだとわかる。


(イレーヌ様にお会いすることは、もう無いかもしれないわね?)

と言うか、もう二度とお目にかからない事を願いたい……!


部屋中の空気を突き刺すような朝日は、ランプの灯りさえ消し去るほどに明るい。全ての闇を一掃するように、広々とした部屋を眩しいほどの明るさで満たしてゆく。

朝日が闇を消すように、このまま公爵と私の心の闇も消し去ってほしいと願うのだった。


「お休みになる前に、先に朝食になさいますか? お腹が減っていらっしゃるでしょう」

「ええ、そうね……でもあとにするわ。なんだかとても眠いの……。ユリスだって疲れているでしょう? お願いだから、あなたもゆっくり休んでね……っ」


心からの安堵の気持ちに、身体が冷えたあとの湯浴みが手伝う。

ほかほかと心地よく、重たくなるまぶたが微睡まどろんだ。







「リリアナ様……」


ほんのわずかな時間、眠っただけのような気がする。


気怠さのなかで目覚めれば、私を呼ぶユリスの顔があって。

白々とした光はもう無くなっていて、代わりに茜色あかねいろに輝く太陽が部屋中に長い影を落としていた。


「リリアナ様、十六時でございます。お食事もまだですし、そろそろお目覚めを」

「あぁ、ユリス……っ、もうそんな時間? 起こしに来てくれたのね。あなたも、あれから少しは眠れた……?」

「はい。旦那様もお昼頃までお休みになられていましたので。使用人たちも皆ホッとして、それぞれの持ち場で船を漕いでおりました」


ベッドサイドのテーブルの上でティーカップにお茶を注ぎながら、ユリスが微笑わらう。


「リリアナ様のお好きなミントティーです。ミントは王都の城の菜園で摘んで、モリスまで持ってまいりました」


爽やかな香りが漂う。レモン色のティーカップに注がれたお茶に、鮮やかな緑色の葉が揺らめいた。


「旦那様からのご伝言もありますよ」


公爵からの伝言。その言葉でまどろみがふっ飛んだ。

猟師小屋での出来事がざっとよぎり、胸の内が波打つ。


「……ディートフリート様は、なんて?」

「リリアナ様のご体調を心配なさっていたのと、モリスを発つ明後日までに、ピアノの演奏を聴かせて欲しいと」

「明後日? 着いたばかりなのに、もう帰るの?」

「到着当初は一週間ほどのご予定でしたが、気が変られたのでしょう。出来るだけ早く、王都に戻るとおっしゃっているそうです」


モリスは確かに美しい場所だ。

けれど、目と鼻の先にイレーヌ王女の離宮があることは然り、昨夜のような冬場独特の脅威を考えると、あまり長居はしたくないような気がした。


「美味しい……」


ベッドに半身を起こしたまま、ソーサーを寝具の膝の上に置く。ユリスが淹れてくれたミントティーを口に含めば、鼻に抜ける爽やかな香りが口のなかに広がった。


「申し遅れましたが、昨夜の吹雪で足止めをされてしまった南国の大使様方三名を、昨夜はこちらにお泊めしたのです。旦那様とリリアナ様がご不在の状況下でしたが、降り始めた雹の中で困っていらっしゃるご様子でしたので、リュシアン様が急遽お許しになって。旅先に出発する前に、リリアナ様にもご挨拶をとおっしゃっていますが……どういたしましょう? お会いになりますか?」

「ぇ、どうして私に?」

「旦那様がご不在の事情を話しましたところ、私たちの状況を見て、共に心配くださって。今朝おふたりが無事に戻ったとお伝えしましたら、是非お目にかかりたいとおっしゃいまして……」


せっかくの申し出だけれど、まだ寝具のなかにいるような状態だ。


「できればお断りしたいけれど……失礼かしら?」

「承知いたしました。リリアナ様は、まだご体調が万全ではないと伝えましょう。それがっ……大使様のお一人が、たいそうな美形でいらして。昨夜から若いメイドたち皆が落ち着かないのです」


へぇぇ、と、ふたくち目のお茶をすする。

どれほどの美形大使かは知らないけれど、正直全く興味がわかない。


「ユリスまでそんな顔をするなんて。よほど美丈夫な方なのね? いったいどこの国の方たちなの?」

「南の船港国家、グルジア国の大使様です。北方のオルデンシア帝都に向かう道中ですって。昼食はお引き止めいたしましたが、急いでいらっしゃるご様子なので、間もなく発たれるのではないかと」


「グルジア、ですって……?」


いつかエヴリーヌ先生に、私の髪の色は、グルジア海の夕陽に似ていると言われたことがあるのだ。

先生が好きだったというグルジアの海に……いつの日か、一度は訪れてみたいと思っていた。


そのグルジアから来た者たちは、いったいどんな風貌をしていて、どんな雰囲気をまとっているのだろう。そう思えば、ひと目でも見たくなった。


「ユリスっ。ご挨拶の用意、急げばまだ間に合うかしら?」





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