第92話 きずな



「ちょっと待ってください!」


聞きなじんだ声が耳に届いた。

拍手が一斉にやみ、広間は水を打ったような静寂に包まれる。


おそれながら申し上げます、王太子殿下! エレノア・ケグルルットでございます。国王陛下はこのわたくしをご推挙なさいました! ニコラウス殿下のお妃選びは、あくまでも形だけだとも、陛下は仰いました。このようなこと……国王陛下がお許しになるはずがありません!」


凄まじい剣幕でまくし立てるエレノアに圧倒され、ニコラウス王子殿下が怯むのがわかる。


「王太子殿下に進言するなど! 不敬に問われますぞ、お下がりください!」


進行役の者がいさめるが、エレノアの剣幕はそのままだ。

ラインハルト王太子殿下が、踊り場の上から穏やかに声をかける。


「エレノア、そなたの言い分は間違いではない。だがニコラウス自身がもう決めた事なのだ。皆の前でこれ以上の醜態をさらす前に下がりなさい」


その声色は、エレノアの驚きや怒りの全てを包み込むような、優しさと慈悲に満ちていた。


「でも……、ラインハルト殿下っ……」

「下がるようにと伝えたはずだ。それでもまだ言うのか?」


「どっ……、どうか陛下に……今一度、ご確認を! お願いでございます……」


招待客たちの嘲笑と憐憫れんびんが、いきどおるエレノアに向けられる。

この後に及んで浅ましい……いったい何が彼女をそれほどに駆り立てるのかと。


王太子殿下の顔色が変わり、精悍な面差しにわずかな失望の色をにじませた。

それでもエレノアは祈るように両手を組んで懇願をする。

大広間は、エレノアの惨めな様子に再び騒めきの様相を見せ始めた。王太子に対する不敬だ、捕らえてしまえと口ずさむ者もいる。


「いくら懇願をしても、そなたの願いは叶わぬ」


王太子殿下は一度目を閉じてうつむいたあと、すっくと顔をあげ、椅子から立ち上がった。


「皆の者! よく聞いて欲しい。エレノア、そなたもだ。この宴の最後に公表するつもりであったが、ケグルルット伯爵令嬢の言い分を鎮める為にも、今ここで表明をしよう。現国王陛下はによる公務遂行困難により、退位されることとなった。よって陛下に代わり、われ、ラインハルトが程なく次期国王に即位する。即位の儀を執り行うまで、現国王に代わりこの王太子が政務全般を牛耳る。皆の者、良いな?」


これは、現国王のを意味する———。


王太子殿下の宣言のあと、エレノアが膝から崩れ落ちるのが見えた。


陛下が、だと?!

にわかには信じられん、そんなご様子は見られなかった。

何者かの陰謀ではないのか。

たとえ陰謀だとしても、あのような愚王ぐおうこそ、失脚して然るべきだ。


突然の宣言に驚き、騒然となる。

すぐさま納得するもの、不審を抱くもの。口々に言葉がささやかれるなか、楽団の演奏がそれらをかき消してしまう。


ニコラウス殿下が、婚約者とともに広間の中央に進み出た。


「そんなっ……」

両手の指先を唇にあてがうけれど、震えが止まらない、息苦しい。


そんな人々の様子を眺めていた公爵がフッと鼻で微笑わらう。

「結局、で通すのだな……」

ここ最近、公爵は頻繁に王宮に出入りをしていた。国王陛下の失脚に、何らかの関わりがあるのかも知れない。


「ディートフリートさまは、このことをご存じだったのですね……? エレノアはっ……! 妹は、どうなってしまうのでしょうか……」

「王太子は分別のある男だ。それに慈悲深い。王太子のはからいで運良く不敬に問われなくとも、こんな形で目立ってしまっては、王宮は勿論、社交場には二度と顔を出せぬだろうな」


震える私の肩を抱き、公爵は明晰に述べる。


「現国王は事実上失脚した。これが、私からのの『答え』だ、リリアナ。王太子ラインハルトは私の功績を讃えた。ランカスター公爵家の再興をうとんじる者はもういない」



ダンスフロアの中央には、ニコラウス殿下とアイリーン侯爵令嬢が互いに幸せそうな笑みを浮かべて見つめ合っている。

聴衆の注目を一手に集めるなか、楽団の壮麗な演奏に合わせて、婚約者ふたりの初々ういういしいファーストダンスが始まった。


王子妃に選ばれなかったエレノアは傷つき、途方ない失望の中にいるはずだ。



———私、行かなきゃ。



幸せな婚約者たち二人に向けられた羨望の眼差しが、もうエレノアに向くことはない。

大階段の下、フロアの片隅には、すでに忘れ去られてしまったようにただ一人きりで残され、床に膝を突いて項垂れる憐れな妹の姿があった。


駆け寄って膝をつき、エレノアの背中に触れようとしたけれど、


「何をしに来たのよ……リリアナお姉様。惨めな私をわざわざ笑いに来たわけ?」


寸手のところで私の手は躊躇ってしまう。


「そんなはずがないでしょう」

「お姉様は良かったわね? 嫁ぎ先で素敵な人に愛されて、大事にされて好きなように着飾って。皆んなの羨望を受けて……。そんな幸せいっぱいの人に、私の気持ちなんてわからないわよ」


「……ええ、そうね、わからないわ? 私とちがって、お父様に愛されてきたあなたの気持ちなんて、私にはちっともわからないわ。だから、おあいこでしょう?」

「……ふふっ、お姉様がそんなふうに言い返してくるなんて珍しいわね! みんなが私を嘲笑わらっているわ。お姉様も笑いなさいよ。どうせ私はニコラウス殿下に選ばれなかった、惨めな女なんだから」


「笑わないわ。それに私はあなたを惨めだなんて思わない。だって、王太子殿下に進言をするなんて……っ」

「言われなくてもわかってるわよ! そうやって姉妹ぶって、妹の私をたしなめるのでしょう……?」


震えるエレノアの華奢な背中を、後ろからぎゅうっと抱きしめた。


幼い頃、よく泣いていたエレノアをこうして抱きしめた。

後頭部に結えられたシルバーブロンド。妹の背中を抱きしめて、この美しい髪に鼻をうずめたのはいつぶりだろう? 子供の頃以来かも知れない。


「エレノア……。王太子様をお相手に、臆せずよく言ったわ……頑張ったわね……!」


「……ッ?!」


私の言葉も行動も、エレノアには理解できないものだろう。

でも——。どんなにわがままでも、心をむしばむような毒を吐かれても。

私のあとを一生懸命に追いかけてきた『小さいエレノア』は、私にとってたったひとりの可愛い妹なのだ。


「ニコラウス殿下のことは、本当に残念だったわね。でも、国王陛下の権力を傘にきたお父様が汚い仕事をしてまで得た地位や名誉なんて、泡みたいにすぐに消えてしまう。なんの価値もないのよ。そんな儚いものなら、手に入れる前に手放した方が良かったの。多くを望まず、身の丈にあった世界のなかでエレノアだけの幸せを見つけて欲しい。あなたは強い子だから、自分で幸せを手に入れられる……!」


「……公爵夫人にもなったお姉様が、身の丈の話なんて笑っちゃう。屋根裏で暮らしていた成り上がりのお姉様に何を言われたって、ぜんぜん響かないんだから……!」


「エレノアが私をどんなに気に入らなくても、嫌いでも。私はあなたの『お姉様』。だからいつでも頼って欲しい。私はいつだってあなたの味方。だっていくら悪態をいていても……エレノアはそうやって、私のことを『お姉様』って呼んでくれるもの」


エレノアがはっと息をのむ。私の言葉が何かひとつでも伝わっていればと願うけれど、今のエレノアには難しいのかも知れない。

それに、こんなふうに私が正直な想いを伝えたのも、これが初めてなのだから。


「いったい……なんなのよ……。いい姉ぶって馬鹿じゃないの?……と言うか、馬鹿よっ。お姉様になんか、何があっても絶対に頼らないんだからっ。私のことは、もう放っておいて……!」


私の手を振り切って立ち上がり、エレノアはフロアの入り口へと足速に向かう。その背中が扉の向こう側に見えなくなってしまったとき、身体中の力がすっかり抜けてしまった。


今は気持ちが交わらなくても、いつか、きっと———。


こんなふうに思うのは馬鹿げているかも知れないけれど、希望は捨てないでいたいと思う。どちらかが相手を想い続けていれば、その『きずな』はきっと、消えないと思うから。



「リリアナ」


いつの間にか公爵が目の前に立っていて、膝をついたまま動けないでいる私にすっと手を差し伸べた。


「気が済んだか」


差し出された手を取れば、ぐっと引き上げてくれる力強い腕に頼もしさを覚え、その腕に途方もなく甘えたくなった。


「……ディートフリートさま……」

「やはりエレノアに、心無い事を言われたのではないか?」


喉の奥底から迫り上がる苦しさに耐えきれず、自分からやんわりと軍服の胸板に頬を寄せた。

そんな私に驚くこともなく、優しい手のひらが背中をそっと抱いてくれる。


公爵の胸は、とてもあたたかい。

背中を包んでくれる手のひらも、大きくてとてもあたたかい。


「私を……あなたのおそばに置いてくださって、ありがとうございます」



楽団の演奏が続いている。


王子殿下のファーストダンスが終わる頃には、もうすっかり宵の帷が降りていた。長い前座が終わり、これからようやく舞踏会の幕が開けるのだ。


雲のない空に大きな月が浮かび、開け放たれたバルコニーに白々とした光を注いでいる。

月の光は、万人に分け隔てなく注がれる。

幸せあふれる恋人たちにも、人知れず葛藤の中にいる『姉妹』にも。






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