第29話 儚い煌めき




廊下に敷かれた群青ぐんじょう色の絨毯の上に一歩ずつ足を進めるも、先ほどまでの意気込みはすっかり萎んでしまっていた。


リュシアンの言葉がジリジリと胸を焦がし、体中のうずきだす——。


「専門の、医師……」


いたたまれなくなって立ち止まり、自分の身体からだを両腕で掻き抱いた。

たとえ薄くなったとしても、このあざが完全に消える事は無いだろう。これは私が、生涯背負っていくものだから。


ピ、チチチ……小鳥たちの囀りが、緑を湛えた窓辺から耳に届いた。

愛らしく呑気に聴こえる彼らの声。だけどきっと、彼らは彼らなりの悩みみたいなものを抱えて、生きているはずだ。


公爵だって。

あの風貌を貫くほどの、お顔のコンプレックス……。


——私だけじゃ、ないはずよ。


心が空っぽになって、自分が何をしたかったのかさえ、忘れてしまいそうになる。

足が向く方へふらふらと歩けば、光が導くように降り注ぐ明るい場所に出た。


顔を上げれば、陽光がまぶたに注がれて——。

ああ、なんてあたたかいんだろう。


ふと見れば、廊下に面した部屋の扉が開け放たれている。光に瞼を預けていたので、目が慣れるまでは見えなかったのだけれど……。


「——ピアノが」


壮麗な白いグランドピアノが、その部屋の中央に置かれている。

引き寄せられるように近づけば、埃ひとつ無く磨かれたそれは、陽光の中で清らかな輝きを放っていた。


鍵盤に触れたい、ピアノが、弾きたい——!


据え置かれた椅子に、静かに腰を下ろす。

蓋を持ち上げれば、八十八の鍵盤が一つひとつ、宝石のように煌めいた。十本の指を静かに置いて、息を吸う。


両手首をゆっくりと持ち上げて、


タン——————…


水を得た魚のように鍵盤の上を踊る指先——この感覚を、私はまだ忘れていなかった。


「……エヴリーヌ先生」


その名を口にすれば自然と涙が溢れ出て、ポツポツと手の甲に堕ちた。

鍵盤に触れたのは何年ぶりだろう。これまでの色々な想いが、一気に込み上げて胸の中をいっぱいにする。


こうやってピアノに支えられて来たんだもの。

嬉しい時は明るい曲が。

悲しい時は悲しい曲が弾きたくなる。

美しい旋律に感情を絡めながら、私だけの一曲を紡いでいく。


私は———ずっと求めていた。

を。



『泣いてもいいよ』



譜面台の横にあるものに、ふと目を奪われた。

額縁の『絵姿』。

小さいのではっきりとは見えないけれど、はじける笑顔の幼い少女と、少女の肩を抱く青年が描かれている。


私は、絵姿の中の青年に目を凝らす。


——公、爵……?


踊り続ける指先。

私が奏でる旋律が、開け放たれた扉の向こうに、そしてその先にまで流れて行く。


夢中で鍵盤を鳴らす私は、まだ気付かない——。


階下で動揺する使用人たち。

血相を変えた公爵がに向かって疾走しっそうするのを。


この部屋が——『白椿の絵画』の向こうの、禁じられた場所だという事を。


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