第30話 どうして(1)



…————ダンッ!!



扉に何かが強打された音が、旋律を奏でる指先を止めた。


「何故ここに……入った」


拳を扉にとどめたままの公爵が部屋の入り口に立ち、こちらを凝視している。荒ぶる呼吸、上下する肩。表情は窺い知れない。けれど、明らかに尋常ではない様子に怯んでしまう。


「私はただ、ピアノが、弾きたくて」


まだ何が起こっているのか、理解できずにいた。

猛然と近づいた公爵が、彼を見上げる私の頬に手のひらを添える——…


「リリアナ……幾ら、君でも」


怒りなのか悲しみなのか分からない。だけどエメラルドの瞳が途方もなく辛そうに揺れている。

添えられた手のひらがゆっくりと、私の頬を離れた。


「出て行ってくれ……頼む……」


肩で呼吸を繰り返し、固く目を閉じた公爵は——込み上げるものを必死でこらえているように見える。


「ディートフリート様……っ」

「この部屋から……出ていってくれ、早く!」


慌てて席を立ち、後ろ髪を引かれる想いで公爵に背を向けた。自然と足が早まり、逃げるように部屋を出れば——廊下のすぐ先に掲げられた『白椿の絵画』が堂々たる威光を放っていた。


「ここは……っ」


私の心に再び氷嚢が投げ込まれる。ああ、どうして気付かなかったのだろう、あれほどに強く、禁じられていた筈なのに。


部屋の中を振り返れば、ピアノを前にして立ち尽くす公爵の背中が見えた。

そして私はようやく理解する——公爵を、ひどく失望させてしまったと。





隣の公爵の部屋が、途方なく遠く感じる……二人で飲んだお茶の味も忘れてしまうほどに。

あれは本当に昨日の夜だったのか。もう随分と、遠い昔のことではないか。


頬にそっと手を触れてみる。

公爵の、手のひらは……燃えるように熱かった。



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