第69話 夢の中の少女



——リリアナ様。


「ん……」

「リリアナ様!」


背中に幾度となく刺さる、私の苦手なその声に気付いて顔を上げる。


「いい加減に起きてください」

「んぁ……っ、ん……えっ?!」


いつの間にか——。

あろうことか、ピアノの鍵盤につっぷして眠り込んでしまっていたらしい。


「寝てたの?!やだ、鍵盤の上っ……!ヨダレ垂れてない?!」


あたふたと取り乱すうち、視界の端っこに飛び込んできたリュシアンの姿。


「…………」


私をぎろりと睨む瞳の上の、不機嫌そうな眉はいつにも増してつり上がり、眉間に深く皺を寄せている。


「リュ、リュシアン!……その窓のところに女の子が立っていなかった?!銀色の長い髪の、綺麗なお嬢さんよっ」

「まだ寝ぼけているのですか?」


リュシアンはひどく呆れたように「は……」と息を吐く。


(私……夢を見てたの……?!)


妙にリアルで鮮明な夢だった。青い目をした、儚く美しい少女の面影を思い出す。


「ピアノを弾いていたはずなのに……っ。どうして寝ちゃったのかわからないのだけど……不思議な夢を見たの」

「夢がどうだか知りませんが。公爵からの伝言を伝えに来たのです」


柱時計を見れば、十五時を少し過ぎたところだ。それは少女との曖昧な夢の記憶とも重なる。

『あの曲』を弾いていたのも、ちょうどその頃だったはずよ……?私は一体、いつから眠っていたのかしら。


「お伝えしてもよろしいでしょうか?」

「ディートフリート様の伝言……。ええ、もちろんよ……リュシアン」


ピアノの長椅子に腰をかけたまま、私は居ずまいを正す。


「公爵は急用で外出されました。十五時までに城に戻らなければ、リリアナ様は自室に戻るようにと」

「外出……?って、どこに行かれたの?」

「あなたがそれを知る必要はありません。既に十五時を過ぎていますから、部屋にお戻りください」


夢で見た少女は窓の外を指差していた。

お兄さまを助けて。

あの言葉のなかの『お兄さま』とは、公爵のことではないのか……。


薄曇りの空からちらほらと、白い結晶が舞っている。

外のテラスに面したガラス張りの扉はしっかりと閉まっていた。


(やっぱり夢だったのね。でも……っ)


「リュシアン……ディートフリート様は、今どこにいらっしゃるの?!教えて欲しいの……何だか、とても嫌な予感がするのよ」

「私からはもう何もお伝えする事はありません、部屋にお戻りください」

「あなたの言いつけ通り、すぐにここを出て部屋に戻ります!だけどその前に、これだけは教えて?!亡くなった公爵の妹さんって、銀色の髪に青い目の、綺麗なお嬢さんでは……?」


リュシアンの目が僅かに泳いだ。


「——それが何か?公爵からの伝言は確かにお伝えしました。私は所用がありますので、これで失礼いたします」


相変わらず無愛想なまま、リュシアンは足早に広間を出て行ってしまう。

しんと静まり返った広い部屋のなかにひとり残された私は——なんとなく周囲を見回し、底知れない心許なさにとらわれた。


リュシアンは否定しなかった。

夢の中で「助けてほしい」と訴えた、あの少女は……。



自室まで、一人きりで歩く廊下はひどく心細い。

公爵が城内にいないのだと思えば尚更、心細さが増す。


黒曜石が敷かれた廊下は冷え冷えとして、昨日の夜、公爵と一緒に歩いた同じ場所だとは思えない。


『リリアナ』


穏やかな声。ぎゅっと繋いだあたたかい手のひら。

肩に掛けてもらった上着。肩越しに注がれる、優しい微笑み。


(ディートフリート様、心配です……早く帰ってきてくださいっ…………)



部屋に戻れば、ユリスが暖炉に薪をくべていた。


「ユリスっ」思わず駆け寄って、メイド服の背中を抱きしめる。


「あら?!お帰りなさいませ……リリアナ様、どうかなさいました??」

「良かった……。廊下に誰もいないんだもの……私を置いて、みんなどこかに行ってしまったんじゃないかって……怖くなって」


声を震わせた私の様子を深刻に思ってくれたのか、ユリスは振り返り、私の背中をそっと抱いてくれる。


「旦那様がご不在ですし、余計不安になられたのでしょうね。階下には警護の者たちをしっかりと配備しておりますよ。それにこのユリスがリリアナ様を置いて行くなんて、そんな事は起こり得ませんから。ご安心くださいませ」


背中をとんとんされているうちに、心が落ち着きを取り戻し始める。


「ユリスは知っているの?ディートフリート様がどこに行かれたのか」

「さぁ……私たちメイドは知らされておりませんが」


それよりも!と、笑顔を見せて私を解放し、パントリーに足を向ける。


「美味しいお茶を淹れましょうね。身体が温まれば、お気持ちもきっと落ち着きます」


ふかふかのソファに腰を沈めて、ユリス淹れてくれた香り高いお茶を飲みながらも、刻一刻と変わってゆく外の景色が気になって仕方がない。


「風が強くなりましたね」

「今夜は吹雪になるのでしょう?」

「ええ、私もそのように聞いていますが……どうでしょう?雪も止んできましたし」

「吹雪になる前に、ディートフリート様はお戻りになるかしら……。吹雪の中じゃ、馬車でも危険でしょう?」

「離宮は桟橋からすぐですし。ご心配には及びませんよ」


ユリスが何気なく発した言葉に、背中がびくりと跳ねた。


「離宮……って……?ディートフリート様は、イレーヌ様の離宮に行かれたの?!」


ユリスはハッと口元を押さえ、大きな楕円の瞳を更に見開く。


「いえ……あの、……それはっ」

「どうして?……どうしてみんな、私にそれを隠そうとするの?!……ユリス、あなたまでっっ」

「申し訳ございません、リリアナ様。旦那様から仰せ使っておりましたので……」

「離宮に行くことを、私に黙っていろと……?」

「ああ、でもっ。旦那様は、リリアナ様に心配をかけないようにと配慮なさったのだと思います」

「心配って、何……?!昔の恋人に会いに行くのを、隠したかっただけじゃない……」

「それはっ、違います」

「どうして……。どうして違うってわかるの……」


宝石も恥じらう美貌と、公爵の心を惹きつけるほどの聡明さを持ち合わせた、イレーヌ王女。


王女に抱いていた劣等感がむくむくと膨らんで——どうにもこうにも、いたたまれなくなって。


胸が、苦しい……!


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