第70話 身に迫る狂気



「リリアナ様、旦那様は本当に……ただ余計な心配をかけたくないと」

「どうして言い切れるの……? ユリス、あなたが何を知っていると言うのっ」

「他のメイドたちは知りません。でも私は知っています。それは私が……リリアナ様のメイドだからです」

「……意味がわからないわ。いったい何を言っているの?」


ユリスの言い分は。


近頃の旦那様は——時々、私を書斎に呼んでは、リリアナ様のことをお尋ねになるのです。個人的に呼ばれるメイドは私だけ。私が、リリアナ様の専属メイドだからです。


わざわざ私を呼んで旦那様がお尋ねになるのは。

リリアナ様のその日の体調のことや、ご様子のこと……変わったことはないか? 寂しがってはいないか? 欲しいものを聞いてはいないか?足りないものはないか? 何か不自由はないか?


問題があるときは揚々ようようと解決しようとなさいます。

逆に私が『何もない』と申し上げると、『そうか。良かった』と仰いますが……なんだかとても寂しそうなのです。


それでほんの小さな出来事、例えば——リリアナ様がバルコニーにやってきた鳥に餌をあげて喜んでおられたとか、うまやの馬の出産に立ち会って感動されていたとか、他愛のないことでもお伝えをするようにしているのですが、旦那様はそれはもう——穏やかに頬を緩めて、嬉しそうに聞いておられるのです。


「それが……っ、どうしたと言うの。公爵が離宮に行くことと、何か関係が?!」

「リリアナ様は、旦那様に深く愛されています。ご自身でも、もう自覚なさっているでしょう? そんな旦那様がやましい心を持ち、昔の恋人との逢瀬を知られたくないという浅はかな理由だけで、私共に口どめをしてまで離宮に向かわれたと思いますか?」

「それは……そうだけれど……っ。それなら隠さずに、きちんと話してくださればいいじゃない。隠そうとするから……ちゃんと言ってくださらないから心配になるのでしょう?」

「具体的なことは私にもわかりませんが、きっと何かご事情があるのです。離宮から旦那様がお戻りになって、事情を話してくださるまで……旦那様を、信じてさしあげて欲しいのです」


ユリスの言い分が、わからないでもないのよ?

だけど……。


好きな人が、かつての恋人と一緒に過ごしているかもしれないなんて。

知ってしまえば余計な想像もするし、心が痛い、辛すぎる……!


「ユリス、私、とても動揺しているから……。冷静になれるまで、少し一人にしてもらえないかしら」


窓の外——降る雪のむこうに見える桟橋の先を茫然と眺める。

そんな私に深々と頭を下げてから、ユリスは静かに部屋を出て行った。


ユリスが言うように、腑に落ちないこともある。

かつては惹かれ合った恋人同士だったとしても。

婚約破棄を理由に公爵は戦場に送られ、家族の命をも巻き込む結末を迎えることになった。


そんな相手がモリスに居ると聞いたところで、やすやすと会いに行ったりするだろうか?むしろ会いたくないと拒絶するのが当然ではなかろうか。


今朝二人で、桟橋の近くまで歩いたとき。

桟橋の向こうにある離宮を睨みつけていた公爵の、刺すような鋭い視線を思い起こせば。

やはり意気揚々と恋人に会いに行ったのとは、違う気がする。



(私に知らせないようにしたのには、何か事情があるのですか……?ディートフリート様っ)



「私は……信じて待っていればいいんですよね……?」



公爵の帰りを待つだけの時間を持て余し、もやもやした気持ちをどこへやれば良いのかわからない私は——別荘という名の美しい城の中を散策しようと、自室を抜け出した。


(ずっとお部屋にいろと言われたわけじゃないもの)


部屋を出て壁に掛けられた風景画をぼんやりと眺めながら、黒曜石が敷かれた廊下をゆっくりと歩けば、今朝公爵が立たずんでいたバルコニーが見えた。


もちろん、そこに公爵の姿はなくて——代わりに難しい顔をした壮年の男が立っている。


リュシアン……?


その隣にいるのは、プラチナブロンドの長い髪を後頭部に美しくまとめ上げた、すらりと背の高い後ろ姿。


——女の人?


真っ白な毛皮のショートコートを羽織り、柔らかに風をはらんだあおいロングドレスのドレープが、くるぶしの辺りで揺れている。


柱の陰に隠れようと、あたふたしているところをリュシアンに見つかった。

リュシアンの視線に気付いたのか、


「あら……」


美麗な背中がゆっくりと振り返る。


「あのお嬢さんが、ディートフリートの?」


私の直感が囁いた。

この美しい人は……イレーヌ王女だ!


(公爵と離宮にいらっしゃるはずの王女様が、なぜここに?!)


「そんなところに立っていないで、此方こちらにいらっしゃい」


嫌だ……あの人のそばには行きたくない。

全力で否定する心を無理矢理におさえつけ、床に張り付いた足をどうにか持ち上げる。


「イレーヌ、王女様に……ご挨拶申し上げます。ハンス・ケグルルット伯爵の長女、リリアナと申します」


いくら拒絶したくても、相手は王女様。

私だって伯爵令嬢の端くれだもの、きちんとお辞儀をするくらいの最低限の礼儀はわきまえている。


「頭を上げなさい。わたくしがイレーヌだと、よくわかったわね?もしも違っていれば、大変な無礼にあたるところよ?」


長い睫毛に縁取られたアーモンド型の瞳に舐めるように見られ、私は居心地の悪さにきゅっと眉をひそめた。


「ふふっ、愛らしいのね」


私の耳に入らないほどの小声で、王女はリュシアンに囁く。

『忌み子』をそばに置くだなんて。女性にあれほど事欠かなかったディートフリートも、随分と落ちぶれたものね。


「わたくしの提案を『馬鹿げている』と言ったディートフリートが、急激に血相を変えたのもわかるわ。こんなにも愛らしい方を、失いたくないですものね?」


王女の言葉の全てが謎だらけで理解ができない……まるで雲を掴むよう。


「イレーヌ様」


リュシアンが目の前に進み出た。私を……背中で守ろうとするように。


「この令嬢は知りません。貴女様のことはモリスに来る道中、単に離宮の存在を耳にしたまで。どうかこのままお捨て置きください」


強い口調で王女に伝えれば、肩越しに私を見遣り、そっとささやく。


「リリアナ様……部屋に戻るのです」


けれどイレーヌ王女がそれを許すはずはなく、リュシアンの訴えは虚しく切り捨てられた。


「まぁリュシアン!まるでわたくしがその令嬢を、獲って食うかのような口ぶりね」

「いえ……決して、そのような事はッ」


流石のリュシアンも、イレーヌ王女を前に動揺している——。


「気分が悪いわ、もう離宮に戻ります。アスタシオン、レンブラント!此方こちらへ」


王女の声掛けに、それまで全く気配を感じさせなかった二人の騎士達が物陰から現れ、王女のそばに寄ってひざまづいた。


「リュシアン、そなたの忠誠心には頭がさがります。かつての主君を殺めたわたくしをさぞ恨んでいるでしょうに、微塵も顔には出さないのだから。ディートフリートのことだって心配でしょう?離宮に呼び出されて、いったい何をさせられているのかって……。安心して頂戴、離宮で殺したりなんかしないわ。ただディートフリートには、わたくしの大切なものを、きちんと返して欲しいだけ」


王女は片手に持った扇子を優雅な所作で閉じ、リュシアンの頬に押し当てて、白磁の肌に小悪魔的なほほえみを浮かべている。


じゃらり。


宝石が幾重にも重なるブレスレットを鳴らして、王女は握った拳を差し出した。

リュシアンが手のひらを開けば、その上に小さな白い粒のようなものをそっと置く。


「イレーヌ様……これは?」

「わたくしの『大切なもの』。今頃、ディートフリートが必死で集めているはずよ?」


私からは良く見えない。

リュシアンの手にひらに乗せられた、白い粒のようなもの——あれはいったい、何?!


(大切なものって……。ディートフリート様が集めているって……どういう事なの……っ)


「久しぶりにその顔が見たかったの。もぅとっくに自害でもしているかと思っていましたのに——会えて良かったわ、リュシアン」


リュシアンの表情は見えないけれど、身じろぎもしない背中からは得体の知れない緊張が伺える。


「馬車を出しましょう。私が付き添わせていただきます」

「いいえ、その必要はありませんわ。桟橋までこちらの愛らしいお嬢さんに送っていただきますから。ねぇ、よろしいわよね?」


リュシアンを見上げれば、肩越しに私を伺う翡翠ひすいの瞳がひどく不安げに揺れている。


ぐっと握りしめた彼の拳は震えていた。


——私には知らされていないところで、公爵に何が起こっているの?!リュシアン……っ。


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