第43話 離れなきゃ!




モリスの湖畔に向かう馬車に揺られながら、窓の外を眺め続けていた。

白椿城の門を抜けて通りに出れば、人々が行き交う外の世界が広がっている。


頭に大きな羽帽子を載せて歩いている女性、泣きながら座り込む子供をなだめているお母さん。怖い顔をして歩く男性の後ろを追いかける痩せこけた物売りの少年。

人の数だけ日常があって、それぞれの人生を懸命に生きているはずだ。


——私の人生は、いったいどこにあるの。


『ケグルルットの人質』として始まった白椿城での生活は、想像していたものと大きく違っていた。

人手が足りないと言うみんなの手伝いをしたり、ハーブや野菜を菜園で育てたり……毎日がとても楽しくて、あっという間に二ヶ月と少しが過ぎ去っていた。


それに——…。


向かいの席で書類を眺めている公爵に目を向ける。馬車の中でも仕事を続けるなんて、お忙しいのですね?

私の視線に気付いた公爵が顔を上げた。


「狭いだろう、やはり私の隣に座らないか?」

「この馬車は広いですから平気です」


言ったそばから足元が揺れて、お互いの膝と膝がコツンとぶつかった。


「 ぁ、すみません……っ」


公爵の足が長いんだもの。

持ってきた本でも読もうかしらと膝の上に広げれば、


「リリアナ、着くまで読書はお預けだ。私は慣れているが、君は下を見ていれば酔うだろうから。三時間ほどの道中だが、どこかで休憩を取ろう」


「三時間ですか?!」

「なんだ、もっと近いと思っていたのか?」


「てっきり……何日もかかるのだと」


そう言えば軽く笑われてしまいました。はぁ・・・。


「君のメイドは何も伝えなかったのだな」

「ユリスのせいじゃないんです。私がちゃんと、聞かなかったのでっ」

「責めているわけじゃないんだ。だが君は、そうやっていつもメイドをかばうだろう?」

「ち、違います……!私の失敗なのに、メイドのせいになってしまったら気の毒ですもの」


今度は静かに微笑んで、公爵は再び書類に目を落とす。

いつもの勘違いで勝手に親近感を抱いてしまった『ウルフ公爵』。でもほんとうの姿はこんなにきれいな王子様だった。


そして——ケグルルットの人質の私。

馬車も馬も、着ているものさえも。私の膝の上にある本も、この時間そのものだって。

ここにあるもの全てがじゃない。


そもそも妹のエレノアがここに座るはずだったのだ、ランカスター公爵夫人として。そんなふうに思えば、公爵と過ごす時間さえもエレノアからの借り物のように思えた。


——私の人生は、いったいどこに落っことしてしまったの?



移り変わる景色は街を抜け、果てしなく続く野原に差し掛かっていた。道も悪くなり、馬車は時々ひどく揺れている。

公爵に言われたように、下を向いて本を読んでいたら酔ってしまいそう。


突然ガタン!と大きく上下する馬車——あっ、と声を上げた私のお尻が宙に浮いた。手首を掴まれ、引き寄せられて。


バサバサバサッ…——紙が散乱する音がして、そのうちに静かになった。


今何が起こったの?!


頬の下にあるのは、視線の先には——しっかりと掴まれたままの手首が痛いくらい。


「大丈夫か……!?」


私の身体を支える公爵が片手を持て余している、抱きしめるのを躊躇ためらうように。


頬に少しずつ公爵の体温が伝わって、私はようやく自分が置かれた状況を知った。

馬車が揺れて前のめりになったのを、抱き止めてくれたんですね?!


男性の胸板って広くて硬いのですね。なんて呑気のんきに考えている場合じゃない!

公爵の胸の上だと思えば、みるみる身体中が火照りはじめて——…。


「だいじょうぶです、すみませんっっっ」


ぜんぜん大丈夫じゃないですよ?!早く公爵から離れなきゃ……!


馬車は相変わらず、大きく揺れながら進んでいる。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る