第54話 甘い現実
*
———夢じゃなかった。
夢のように甘い現実だ。
「ユリス、ああ……どうしようっっっ……」
荷物と私を部屋に運び込んだあと、クローゼットの整理を始めたユリスの近くを行ったり来たり。服を吊すのを手伝うと言ったのだけど、やんわりと断られてしまった。
「旦那様ったら、珍しくご機嫌でしたねっ。リリアナ様を、いつにも増して気遣っておられましたし。腰元に手を添えて歩かれた時は、メイドの私達も興奮いたしました!」
「だから、どうしようなのよ……」
あれから別荘に着くまで——大変だった。
揺れが続くからと言って肩を抱かれれば、公爵の肩のくぼみに額が収まって……もうそれだけで、私の心臓は破裂しそうだった。
馬車を降りてからも、ユリスが言ったように腰に手をあてがって私をエスコートする。確認もなく身体に触れるのは、もう完全に『婚約者』の取り扱いだ!
(子供達と同じ扱いだった方が、ずっと気が楽でした……)
「何か問題でも?お二人の距離が近付いて、私は嬉しいですよっ」
ユリスは優秀なメイドだ。モリスに来る道中に公爵と何があったかなんて、余計な詮索はしないのね。
「問題ありありよ……心臓がもたないもの」
ふふっと笑みをこぼしたユリスは、整え終えたクローゼットからシルクの白いドレスを取り出した。
「毎朝ジョギングでもなさって、心筋を鍛えるしかありませんね。長旅でお疲れでしょうが、晩餐のご準備を。モリスと言えば『鹿』です。この界隈で名高いシェフを厨房に入れておりますから、ディナーはきっと美味ですよ!」
「モリスでもジビエ……?私、お腹がすかないのだけど」
バンビの白いお尻が目の前をちらついている。
それに晩餐だなんて。
公爵を前にして、いったいどんな顔をしてご飯を食べれば良いの?ちょっと見られたら、また茹でダコになっちゃいそう!
「はぁぁ……」
ディートフリート様は、もうただの『公爵』じゃない——私の……『婚約者』。
『結婚しよう』
ボッ!と顔が燃え上がる。
あの公爵と、私が、——結婚!?
火照り続ける頬を窓の外に向けた。
夕刻を過ぎた外気は更に温度が下がり、こんこんと降る雪が灯りも無いのに、闇のなかに白く浮き出るようだ。
「明日の朝は、少し積もるかも知れませんね」
『モリス』と呼ばれる別荘地は隣国に連なる雪山の
「——桟橋」
「あら、このお部屋から良く見えますね。歩いてもすぐなんですよ。明日、もし天気が良ければ旦那様とお散歩なさってはいかがでしょう」
夕闇に包まれた湖はぼうっと白く霧掛かり、桟橋の向こう側までは見えない。
「あの桟橋の向こうに、イレーヌ様の離宮があるのでしょう?」
「……イレーヌ様、とは?」
公爵でさえ離宮の事を知らなかったのだから、ユリスが知るはずがない。私はポニーテールの尻尾を揺らして振り返る。
「いいえ、なんでもないわ。ユリス、髪は引っ詰めて……ぎゅーって、出来るだけ小さくしてもらえる?」
「構いませんが……モリスに到着して初めての晩餐ですし、まとめずに下ろして巻いてみては?華やかになりますよっ」
いちいち晩餐の席をもうけるなんて、困った習慣だわと、切実に思う。
「髪型は地味にしたいの」
凝った事をして、いつかのように公爵に好奇の目で見られ続けるのは耐えられない。それに——。
「髪をおろしても、私、似合わないの」
リクエスト通りにユリスが鉄錆色の髪をまとめれば、
「これではメイドです。耳の前の髪を巻いて……片方だけ垂らして。後ろはリボンを付けましょう」
地味にしたいと言ったのに。
ユリスの手にかかれば、小さく引っ詰めた髪も晩餐仕様に華やぐのだった。
(似合わないって……また笑われてしまいそう)
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