第54話 甘い現実





———夢じゃなかった。

夢のように甘い現実だ。


「ユリス、ああ……どうしようっっっ……」


荷物とを部屋に運び込んだあと、クローゼットの整理を始めたユリスの近くを行ったり来たり。服を吊すのを手伝うと言ったのだけど、やんわりと断られてしまった。


「旦那様ったら、珍しくご機嫌でしたねっ。リリアナ様を、いつにも増して気遣っておられましたし。腰元に手を添えて歩かれた時は、メイドの私達も興奮いたしました!」


「だから、なのよ……」


あれから別荘に着くまで——だった。


揺れが続くからと言って肩を抱かれれば、公爵の肩のくぼみに額が収まって……もうそれだけで、私の心臓は破裂しそうだった。

馬車を降りてからも、ユリスが言ったように腰に手をあてがって私をエスコートする。確認もなく身体に触れるのは、もう完全に『婚約者』の取り扱いだ!

(子供達と同じ扱いだった方が、ずっと気が楽でした……)


「何か問題でも?お二人の距離が近付いて、私は嬉しいですよっ」


ユリスは優秀なメイドだ。モリスに来る道中に公爵と何があったかなんて、余計な詮索はしないのね。


「問題ありありよ……心臓がもたないもの」


ふふっと笑みをこぼしたユリスは、整え終えたクローゼットからシルクの白いドレスを取り出した。


「毎朝ジョギングでもなさって、心筋を鍛えるしかありませんね。長旅でお疲れでしょうが、晩餐のご準備を。モリスと言えば『鹿』です。この界隈で名高いシェフを厨房に入れておりますから、ディナーはきっと美味ですよ!」


「モリスでもジビエ……?私、お腹がすかないのだけど」

バンビの白いお尻が目の前をちらついている。


それに晩餐だなんて。

公爵を前にして、いったいどんな顔をしてご飯を食べれば良いの?ちょっと見られたら、また茹でダコになっちゃいそう!


「はぁぁ……」


ディートフリート様は、もうただの『公爵』じゃない——私の……『婚約者』。


『結婚しよう』


ボッ!と顔が燃え上がる。

あの公爵と、私が、——結婚!?


火照り続ける頬を窓の外に向けた。

夕刻を過ぎた外気は更に温度が下がり、こんこんと降る雪が灯りも無いのに、闇のなかに白く浮き出るようだ。


「明日の朝は、少し積もるかも知れませんね」


『モリス』と呼ばれる別荘地は隣国に連なる雪山のふもとに広がり、雪降る湖畔の美しい景観を中心に、名だたる貴族の別荘が点在するのだそう。


「——桟橋」


「あら、このお部屋から良く見えますね。歩いてもすぐなんですよ。明日、もし天気が良ければ旦那様とお散歩なさってはいかがでしょう」


夕闇に包まれた湖はぼうっと白く霧掛かり、桟橋の向こう側までは見えない。


「あの桟橋の向こうに、イレーヌ様の離宮があるのでしょう?」

「……イレーヌ様、とは?」


公爵でさえ離宮の事を知らなかったのだから、ユリスが知るはずがない。私はポニーテールの尻尾を揺らして振り返る。


「いいえ、なんでもないわ。ユリス、髪は引っ詰めて……ぎゅーって、出来るだけ小さくしてもらえる?」

「構いませんが……モリスに到着して初めての晩餐ですし、まとめずに下ろして巻いてみては?華やかになりますよっ」


いちいち晩餐の席をもうけるなんて、困った習慣だわと、切実に思う。


「髪型は地味にしたいの」


凝った事をして、いつかのように公爵に好奇の目でのは耐えられない。それに——。


「髪をおろしても、私、似合わないの」



リクエスト通りにユリスが鉄錆色の髪をまとめれば、


「これではメイドです。耳の前の髪を巻いて……片方だけ垂らして。後ろはリボンを付けましょう」


地味にしたいと言ったのに。

ユリスの手にかかれば、小さく引っ詰めた髪もに華やぐのだった。


(似合わないって……また笑われてしまいそう)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る