第2話 宵闇の狼公爵





「使用人を雇った覚えはないが」


無精髭の中で動く唇から、くぐもった声が絞り出された。


これが、公爵の声……?

喉の奥に異物が絡まるような違和感と不快感。


公爵は髪をゆるく後ろでまとめているけれど、まるで落武者みたい。

伸びきったボサボサの前髪からかろうじて覗く洞穴のような二つの目に、背中がぞくりと粟立った。


彼が世に言う——『宵闇よいやみウルフ公爵』。


確かにこの風貌じゃ、そう呼ばれて怖がられても仕方がないわね。

私も鉄錆色の髪と目の忌み子だから、似たようなものだけれど。


「ディートフリート・ランカスター公爵閣下にご挨拶申し上げます。ケグルルット伯爵家の長女、リリアナでございます」

「奴は……ケグルルットは、なぜお前を寄越した?! 私が望んだのは、お前ではない!」


公爵の腕っ節が宙を飛んだかと思えば、激しい音を立てながら卓上のグラスが床に落ち、ガラスの破片と一緒に赤い液体がほうぼうに飛び散った。


「次女のエレノアは、第三王子殿下が妃殿下候補にご所望でございます。なのでっ、長女の私が代わりに参りました。家柄には問題ないはずだと、父が……」


「私を馬鹿にしているのか!!」


苛立ちを隠さず拳を握りしめ、背中を向けた公爵は、はたから見てもわかるほどに肩を震わせている。


怖い———。

予想はしていたものの、これほどまであから様に『怒り』をおもてに出すなんて。


「まあ良い。そもそも妻など私には必要無かったのだ。身代わりでもの片割れだ。『人質』として置いておけば、この先何かの役に立つかも知れん」


「人、質……?」


いえいえ、私はお父様に吐いて捨てられた身ですから、きっと何の役にも立ちません。


「ああ、そうだ……お前はケグルルットの人質だ。食事と寝る場所を与えてやるが、自由は無いものと思え。外出も許さん」


初めから、自由なんてなかった。

実家にいた時から牢獄にいるのと同じだった。


大したことはない、むしろ……良かった。

死ぬまで逃れられないと思っていたから、出られたのだから。


「私の花嫁になれると思ってここに来たのだろうが、お前は今日から私の人質だ。恨むならお前の父親を恨め」

「恨むだなんて……私はっ」


リュシアン!

私の言葉を最後まで聞かぬうちに、息を荒げたままの狼公爵は家令を呼びつける。


「彼女を部屋に連れて行け」


窓辺に飾られた白椿が花首ごとばさりと床に落ちた。椿の花は美しいが、こういう落ち方をするのだ。



———こうして私はこの日から、ウルフ公爵の『人質』になった。



普通ならばここで得体の知れぬ恐怖にかられ、震え上がったり泣いたりするものなのかも知れない。

人質の立場だなんてもちろん経験したことは無いけれど、地下の牢屋でもどこでも、あの屋敷にいるよりはましだ。


私はむしろ、ケグルルットの屋敷を出られた事に、心からの安堵の気持ちを覚えるのだった。


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