第五話 天の助けか地の罠か

 俺とハルはお互いに背中を付けてへたり込んでいた。どうにかこうにか狼っぽいイヌ科の動物の群れを追い払ったものの、日常とはかけ離れた出来事に、気力も体力もすっからかんだ。


 不思議なもので、こんな風に身体や心が折れそうな時ほど、月や星が綺麗に見えたりする。俺は膝で大泣きするハナの背中をトントンと叩きながら、満月に近い大きな月を眺めていた。


 とはいえ、いつまでも座り込んでいたら危険かも知れない。焚火たきびの炎もいつの間にか、小さくなってしまっている。夜明けはまだまだまだ随分ずいぶんと先だ。


 ハナを抱いたまま辺りを警戒しながら立ち上がると、ハルが赤く泣き腫らした目をらした。


「ハル頑張ったな。ちゃんと花火も当たったし、ハナを守っていてくれた。お父さん、おまえが居て心強かったよ」


「――ぼく、ブルブルふるえて、泣いてただけだ」


 俺は本心から言ったのだけれど、ハルは自分の不甲斐ふがいなさを恥じるみたいに応えた。


「ハルは充分頑張ったじゃないか」


 八歳の子供が、あんな大きな獣に平気で立ち向かったら、それこそ問題だと思うぞ。


「おとーさんは犬をやっつけて、すごくかっこよかったのに」


 えっ! マジで!


『お父さんカッコイイ!』。世のお父さんが、息子に言われたい台詞おそらく第一位だろう。思いがけない大賛辞に、非常事態宣言中なのを忘れて、つい口元が緩む。


 緩んだ口元を隠しながら、落ち込んだハルの頭を撫でようと手を伸ばした時、ハルが急に暗闇を指さして立ち上がった。


「おとーさん、アレ見て!」


 目を凝らして暗闇を見つめると、遠くでゆらゆらとあかりが揺れている、そしてどうやら、あの灯りは近づいて来ている。


 俺は手早くラケットやらペットボトルやらをリュックに入れて背負い、ハルの手を握る。天の助けか、それとも何かの罠なのか。


 しばらくすると『おーい』とか『ほーい』とかいう、男の声が聞こえてきた。そしてカンテラのような、提灯ちょうちんのようなものを持った爺さんが焚火の前に、足音もなくスルリと現れた。


 助かった、のだろうか? ようやく人に会えたという安堵感が湧く暇もなく、俺とハルの視線は爺さんの頭の天辺てっぺんに釘づけになった。ポンチョを着て、灯りをかかげた現実感の薄い人。その人の頭には猫のものと思われる耳が、尻部分には尻尾が揺れていたのだ。


 質感といい、動きといい、とても作り物とは思えない。逆に作り物だとしたら凄い技術だ。でも普通の素朴なポンチョ着た爺さんが、そんな高性能な耳を頭に付けてどうしようっていうんだ? それなんか怖い!


 本物だったら? ネコ耳が? 世界不思議発見!? 知られざる独自の進化を遂げた、秘境の少数民族とかそういうやつ? 肉食だったらどーしよう! 怖い!


 俺はここまでを僅か三秒で考えた。ネコ耳についてこんなに考えたのも、初対面の爺さんについてこんなに考えたのも、おそらく生まれて初めてだ。考えが頭を駆け巡ると言うのは、こういう事なんだと思った。


「△◯☆ー? ◯◯▽◯☆?」


 爺さんが口を開いた時は、まあそうだよなと思った。民族色あふれるポンチョを普段から着こなしている日本人の爺さんは、あまり会ったことがない。顔立ちはちょっと掘りの深いアジア系といった感じだ。ネコ耳つきだけど。


 しばらくじっと俺たちを見つめていた爺さんが「コイ」と言って、俺たちに背中向けて歩き出した。


『来い』か?


 ついて行って良いものだろうか。たび重なる想定外の出来事に、既に自分の判断能力に自信が持てない。例えて言うならば、


『前から怖そうなサングラスの二人組が歩いて来たので、さりげなさを装って横道に入ったら、なぜか銃撃戦が繰り広げられている! こっちのルートは選択ミスなのか? とゴミ箱に隠れて頭を抱え、もう泣きそう。すると後ろから「こっちだ!」と声をかけられた。いやでも待て、このパターンは更に何かに巻き込まれるフラグじゃないのか?』


 といった気分だ。……長い上に伝わりにくいな……。まあつまり、って事だ。この場で朝まで無事でいられる気がしない。


 爺さんの言葉は明らかに日本語ではなかったので歩きながら、何度かへたくそな英語で話しかけてみた。


『ここはどこですか?』とか『どこに向かっていますか?』とか。爺さんは首を傾げるばかりだった。英語がダメとなったらお手上げだ。


 やがて大きな岩山の前で立ち止まる。爺さんはそれはそれは身軽だった。ヒョイ、ヒョヒョイっと、大きな岩山を登っていく。しばらく見上げていると、目の前の切り立った岩壁が、ゴゴゴゴ、ガガーン! と左右に別れた。


 なにこの合体ロボとか出てきそうな装置! これは高性能付け耳マッドサイエンス爺さん確定なのか? 悪の組織の秘密基地だったらどうしよう!


 俺は改めて、このまま着いて行って良いものかどうか、躊躇ためらって立ち止まる。


 隠し扉の向こうには、小さな石造りの可愛らしい家が見えた。柔らかな灯りの洩れるその家は、見るだけでなんだか涙が出そうな程優しく見えた。


 ヘンゼルとグレーテルは、森の中でお菓子の家を見つけた時、こんな気持ちだったのかもな。


 先に立って案内してくれる爺さんの揺れる尻尾を見ながら、俺はそんな事を考えていた。

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