第七話 夜の帳のその中で

 頭にもふもふのキツネ耳のある今井さゆりさんは、熊谷市出身の元日本人。ここは地球ではなく『パスティア・ラカーナ』大陸の、茜岩谷サラサスーンという乾燥地帯。日本から来て一年半ほど過ぎた頃、耳と尻尾が生えて来て、この地に住む人と同じように獣の姿にもなれるようになった。


 目の前の年配の女性が、こんなことを言い出したら、どうしたらいいのだろう。助けを求めようと、隣に座っている爺さんに視線を移すが、こちらも同じように頭の上に耳を乗せている。


 逃げ出したい気持ちになるが、俺たちの事情も相当なものだ。人に話したら正気を疑われるレベルだろう。


 何より俺は疲れていた。もうどうしようもなく物理的に。一日中ハナを抱えて歩き通し、犬だか狼だかに襲われ、曲がりなりにも攻防戦を繰り広げたのだ。今なら、悪魔の手のひらの上でも眠ってしまいそうだった。


 寝ているハルとハナを連れてこの家を逃げ出し、あてもなく暗闇を歩くなどという気力は、とうの昔に尽きていた。


 さゆりさんは混乱する俺に、とりあえず今日は休んで下さいと寝床をあつらえてくれた。もう、何も考えずに、眠ってしまいたかった。この善良そうな二人が、俺たちに危害をくわえることなど、考えたくなかった。


 あと、ほんの少しだが、目が覚めたら自宅のベッドで寝ているんじゃないか。そんなことも考えた。


 お言葉に甘えますと言い、ハルとハナが寝ている屋根裏部屋へと上がる。



 二人を起こさないようにそっと歩き、ベッドに腰掛ける。ハルがハナを抱え込むようにして、眉根に皺を寄せて寝ている。ハナはまた鼻をピープー鳴らしている。ハルの眉間をぐりぐりして、ハナの鼻をつまむ。二人とも同時に、迷惑そうに顔をそむけた。いつも通りの平和そうな二人の様子に、日常の気配が戻ってくる。


 俺は思わずプッと吹き出しながら、ベッドに横になる。そっとハナを腹の上に乗せ、ハルに腕まくらする。


 普通のシングルサイズくらいのベッドだ。ぎゅうぎゅうだ。ベッドはもうひとつ用意してくれたが、今は二人の体温を感じていたい。ぎゅうぎゅうが心地良い。


 二人の寝顔がみ渡る。ハナの柔らかい二の腕をぷにぷにと揉んでいると、心が落ち着いてくるのを感じた。


 さゆりさんの話したことは、あまりにもあんまりで、信じることは難しい。だが俺たちに起きたわけのわからない現象に、関係しているようには思えた。


 瞬間転移、タイムトリップ、まさかの、アブダクション(宇宙人にさらわれる事)。


 どれもこれも、ネットの巨大掲示板のオカルト板の中の出来事のようだ。


 一瞬のうちに眠らされて、移動させられた可能性を考えた。または俺が記憶喪失になり、ハルとハナを連れて自ら移動したあと、唐突に記憶が戻ったという可能性。身に覚えはないが、自分の感覚や記憶など、案外当てにならないものだ。


 これが用意されたシナリオだとしたら、このあと何が起こるのだろう。俺たちをだまして笑うためだけにしては、あまりにも大掛かりすぎる。


 枕元のリュックからスマホを取り出す。着信やメールのお知らせはない。チャットアプリは立ち上がらない。アンテナは圏外のまま、ネットも繋がらない。


 スマホの日付や時間は、俺の記憶と食い違っていない。公園に向かっていた2018年8月某日のままだ。朝、ナナミと二人で作ったサンドイッチ弁当とバトミントンセットを持ち、公園に向かった。途中で100円ローソンに寄って花火や飲み物、俺の煙草やハルの折り紙用紙を買った。もはや、遠い日の出来事のようだ。


 この地に飛ばされてきた直後、一度だけナナミと連絡が取れた。俺もハルも目の前の景色や、突然の出来事に唖然として立ち尽くしていた時だ。



 俺の嫁は突発的な事態にさえ、立ち向かう勇気を持っている。


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