第二話 終わらない夏休み

 似顔絵屋は物珍しさも手伝って、順調な滑り出しだった。なんとか稼ぎになりそうなので、週に二、三回、リュートの都合に合わせてシュメリルールに通う生活がはじまった。その合間にさゆりさんに言葉や文字を教えてもらい、自衛手段についても考える。自力でシュメリルールまでたどり着けるようにならないことには、話にならない。


 大岩の家からシュメリルールまで約二時間。急げば一時間強の距離だが、その道のりは安全とは程遠い。リュートに護衛してもらいながら、片手の指の数ほど往復する中で、谷狼に追いかけられること一回、トンビに弁当を奪われること二回、谷黒熊に鉢合わせすること一回。谷黒熊はサラサスーンの最強生物だ。


 危険な目にう度にリュートに守ってもらい、男としてのプライドのようなものは、もはや地に堕ちている。それよりも運動不足で緩んだ身体では、到底とうていハルとハナを守ることができない。俺は気休めかもと思いつつ、朝晩に筋トレと走り込みをはじめた。そしてそれは、自分でもびっくりする程すんなりと日課になった。


 言葉や文字を覚えることも、少しでも動ける身体を作ることも、この世界で生きていくためには、最低限の必要なことだ。どうしても引けない理由もある。そして何より、ハルがを上げなかった。ハルが一緒でなかったら、俺は弱音のひとつも吐いていたかも知れない。




 この世界に飛ばされて一か月が過ぎる頃には、俺たちは大岩の家での生活に、すっかり馴染んでいた。やらなければならないことは多かったが、不思議と忙しいとは感じなかった。大岩の家では、時間はいつも、ゆったりと流れていた。 



 ▽△▽





 この世界に来てから、ほとんど寝坊をしなくなった。毎日アラームなしで夜明け前に目が覚める。毎日朝方まで絵を描いていた生活が嘘のようだ。


 大岩の壁の上で眠気覚ましに一服しながら、朝日が昇るのを待つ。この世界の一日は、二十二時間四十五分くらい。日の出のタイミングで確認済みだ。おかげでスマホの時計の調節が難しい。そのうち、どうでも良くなりそうだ。


 一服を終えると壁から降り、井戸で顔を洗って軽くストレッチをはじめる。それから小学校の校庭くらいはある大岩の内周を走る。たいてい二周目くらいでハルが起きて来るので、準備運動を済ませてから合流させ、四周目と五周目を一緒に走る。


 最初は二周で息が上がっていた。筋トレも今より三分の一の数でも、次の日は筋肉痛だった。多少は体力も筋力も戻ってきたと思う。所詮しょせん運動不足のおっさんから、意識高い系の多少鍛えてるおっさんになった程度のものなのだが。それでも無駄ではないと思うし、なにより頑張るハルを見るのが楽しかった。


 顔を洗って家に入ると、さゆりさんが朝食の準備を始めていた。


「あらあら、二人とも、朝から頑張ったわねぇ。きっと朝ごはんが美味しいわよ~」


 ふわりと漂う味噌汁の湯気に、ハルの腹がぐうーと鳴った。


「とーたん、ハルちゃ」

 ふと見上げると、屋根裏部屋からハナが身を乗り出している。慌ててハシゴを昇り、ハナを受け止める。ハシゴの入り口を覆う、蓋のような物を付けないと危ないかも知れない。


 左手でハナを抱き上げ、タオルを持って井戸まで行く。まだふにゅふにゅと寝とぼけているハナの顔を濡れタオルで拭い、塩で歯を磨く。急にしゃっきりと目を覚ましたハナが、「おはよーとーたん」と抱きついてきた。ちなみに『とーたん』は俺のことだ。


 じーさんが起きて来て、足長鳥とデカ耳ヤギと角なし牛、馬を除く家畜を全部庭に出している。角なし牛は茜岩谷にいる谷角牛とは種類が違う牛だ。もっと東の方に住む、穏やかでたくさん乳を出す乳牛にゅうぎゅうらしい。


 大岩の家の家畜は、なぜか畑には入らない。端っこ方で草食べたりしてのんびりしてるし、爺さんが呼べはすぐに集まってくる。あ、足長鳥は呼んでも来ないな。あの鳥を捕まえることが、目下の俺たちの目標だ。


 爺さんが椅子に座って牛とヤギの乳をしぼる。ハナとハルが走り寄って、興味津々でそれを眺める。俺とハルは挑戦済みだ。ハルは一滴も絞れずにギブアップ。俺は、うん。乳は割とイケる方――(自主規制)。


 三人で鳥小屋に入り卵を集めて、軽く掃除する。家畜小屋も掃除して、フンを集めて捨てる。手を洗って爺さんからヤギと牛、二種類のミルクを受け取り、家に入る。


 さゆりさんに卵とミルクを渡す。


「今朝は和食なのよ~。ふふふ、甘い卵焼き作っちゃおうかしら」


 今日も朝からご機嫌な様子だ。さゆりさんは味噌と醤油、まさかの豆腐までを、長い試行錯誤しこうさくごの末作り上げていた。日本人の執念を感じる。


 リュートが酒を持って訪れた日、少し酔ったさゆりさんに、延々と醤油と味噌作りの苦労を聞かされた。豆腐は海水を手に入れて、ニガリが出来れば簡単だったらしい。海が遠いこの地方では、海水を手に入れる事こそ大変だったと言っていた。大岩の家で米と呼んでいるのは、アマランという雑穀だそうだ。米よりも若干甘味が強いが、もちもちとした美味いごはんが炊き上がる。


 朝食の後は、畑の手伝いをしたり、狩りに出かけたりする。爺さんはなかなか優秀な狩人で、大岩の家で食べる分の肉は、全てひとりでまかなっている。ウサギや鳥やネズミ、時には谷角牛も狩る。俺はまだまだ役に立たないが、獲物の解体は徐々に手伝わせてもらっている。なかなか重労働だし、生々しさに目眩めまいがする。異世界のハードルは色々高い。


 爺さんはあまり話さないし、一見とても気難しそうだ。でも不思議と一緒にいて心地良く、ハルもハナもとてもなついている。ぶっきらぼうだが、先回りして俺たちが困らないよう気を使って動いてくれる。ハルとハナを見る目の色は優しい。リュートの包容力溢れる笑顔は、爺さんによく似ていると思う。あまり爺さんは笑わないけどな。


 軽い昼食の後は、弓矢を射る練習をしたり、この世界の言葉と文字の勉強をしたり、さゆりさんと燻製くんせいを作ったり、爺さんと革をなめして細工物を作ったりする。肝心な異世界語と弓はあまり上達していないが、教えてもらいながら色々なものを作るのはとても楽しかった。


 ハルはたいてい俺と一緒の事をやっているが、ハナはとても自由だ。この大岩の中は危険なものがほとんどない。さゆりさんにくっついて回ったり、畑の中を走り回って爺さんに叱られたり、虫を追いかけたりしている。先日見失って慌てて探したら、デカ耳ヤギと一緒に木陰で昼寝していた。


 毎日真っ黒になって走りまわるハナを見るたびに、畑で芋ほりをして歓声をあげるハルを見るたびに、二人はこの世界の方が幸せに暮らせるような気がしてくる。子供が育つ上でこの環境は、日本の都会ではどんなに願っても手に入らない極上ごくじょうのものだ。この安全で美しい庭は、おそらく爺さんが長い長い時間をかけて、さゆりさんのために作った箱庭なのだろう。


 大岩の家での生活は、終わらない夏休みのようだった。宿題が多いところも似ている。

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