お父さんがゆく異世界旅物語

はなまる

序章

第一話 プロローグ〜大岩の壁の上で〜 其ノ一

 空が白みはじめる前に、そっと屋根裏部屋から降りる。庭に出ると昨夜は珍しく霧が出たのだろう、空気は雨上がりに似た匂いがした。岩壁の縄ばしごを登り、壁の上に立つ。


 地平線から顔を出す太陽を待ち、残りの本数を数えてから煙草に火をつける。目を射るような強烈な光に、影に沈んだ大地の赤が浮かび上がる。


 ここから朝日を眺めながらの一服が、すっかり習慣のようになった。隅々まで命を吹き込んでいくような、巨大な装置が起動する瞬間のようなこの光景を、毎朝ひとりで眺める。


 壁の上の強い風が、細く吐き出した煙を流れる間もなくすぐに消す。 


 ここはサラサスーン。日本語でいうと『夕焼け色の岩の谷』。俺たちは茜谷とか茜岩谷と呼んでいる。


 俺の名前は二ノ宮ヒロト。三十路みそじの既婚者で二人の子持ちだ。なぜ朝っぱらから地平線なんぞを眺めながら一服しているかと言うと、それはもう一言ひとことでは説明しきれないくらいの理由わけがある。


 人に言ったら『疲れているのか?』と心配される程度には、現実ばなれした話だ。もし俺が友だちからこんな話を聞いたら、後からこっそりと家族に連絡を取り『ゆっくり休ませてやってくれ』と言ってしまうだろう。


 だが俺にとっては紛れもない現実だ。実際何度眠っても寝室のベッドには戻れないでいる。


 それはある朝突然に、俺たち家族に起きた、一瞬の出来事からはじまった。




 今から二か月ほど前。俺たちはごく普通の四人家族として、日本で呑気に暮らしていた。看護師をしている嫁のナナミ、小学校二年生の長男ハル、もうすぐ三歳になる娘のハナ。


 夏真っ盛りのクッソ暑い中、なんでまた公園なんか行こうと思っちまったんだろうな。


 珍しくナナミが三連休だった。ハルが『花火やりたい』と言ったので、買いに行こうと思っていた。ハナが『ちゃまごしゃん(タマゴサンド)たべたい!』と言ったので、ナナミと二人でつい各種サンドイッチを山盛り作ってしまった。


『どうせなら公園ででも食べるか?』


 そう言ったのは俺だった気がする。


 サンドイッチを保冷バッグに詰め、バトミントンのラケットを持って家を出た。途中コンビニに寄って、花火や飲み物を買った。


 そして、公園前の交差点で信号待ちをしていた。本当に、ただそれだけだ。普通だろう?


 ジリジリと照りつける日差しを避けて、桜並木の作る木陰になんとか収まるように移動する。隣にいたナナミがスニーカーの紐を結び直す為に、道の端に座り込みハルの手を離した。


「ハル、こっち来い」


 ハルを呼び左手でハナを抱え上げ、右手を差し出した。


 ハルの手が、俺の手に触れた瞬間。


 降り注ぐように聞こえていた蝉の声と、信号待ちの通りゃんせの音が、ピタリと止やんだ。


 目の前でカメラのフラッシュを焚かれたような眩しさに、思わず目を細める。視界が光に飲み込まれる瞬間。最後に見たのは、びっくりしたように目を見開いたナナミの顔だった。


 次に目を開いた時には、俺はハナを左手に抱え、ハルの手を握ったまま、見渡す限りの荒野に立っていた。


「えっ?」


 あまりに唐突とうとつな出来事に、しばらく身動きすることも忘れた。


 地平線なんてものを初めて見た。遠近感が狂うほどの開けた視界いっぱいに、赤い地面がはるか遠くまで続き、盛り上がった大地は切り立った崖のようで、縞模様の地層をむき出しにしてそそり立っている。


 ところどころひび割れの走る地面に、こびりつくように生える枯れた色の草。ひっきりなしに風が吹き、乾いた空気をかき回している。


「ねぇ、おとーさん。ここどこ?」


 ハルが、ほうけたような声を出した。


「おう、ここどこだろうなぁ」


 俺も似たような声しか出なかった。


「おかーさんは?」


 振り向いても、あたりを見回しても、ナナミの姿はどこにも見あたらなかった。


「おかーさん? おかーさーん!」


 戸惑いながらナナミを呼ぶハルの声を聞きながら、俺はただその手を放すまいとぎゅっと握った。ハナが、俺の腕の中で『くひゅう』と、あくびをひとつした。

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