第十話 今井さゆりという人
「
「そう見えるように、がんばっているだけです」
ポロポロと、どんどん本音が漏れてしまう。
「毎日いっぱいいっぱいですよ」
「私は当時、ボロボロだったのよ。毎日泣いて、カドゥーンに八つ当たりして」
「俺なんか、このままナナミが見つからなかったり、子供たちまでいなくなったりしたら、壊れる自信があります」
何故かダメっぷり比べのようになる。うん、俺の勝ちだな。嬉しくないけど。
「あら、壊れちゃったら大変! カドゥーンに修理できるかしら?」
俺は吹き出して、ハハッと笑う。爺さんなら部品さえあれば、なんとかしてくれそうだ。
「さ、戻りましょう。ハルくんが心配しているわ」
さゆりさんから見たら、俺は宝物を取り上げられないように、ビクビクしている子供みたいに見えているのかも知れない。本当に、この人には敵わない。
家に戻ると爺さんが、ハルのスリングの手入れをしてくれていた。劣化を防ぐ為に、ゴム部分に革靴用の油を塗り込むのだ。しゃがみ込んで爺さんの手元を見つめていたハルが、入ってきた俺に気づき、こちらに歩いてくる。
ハナは俺の荷物入れから、買ってきた衣類なんかを引っ張り出して遊んでいた。
ハルが戸惑ったような顔をして、俺の顔を見上げる。
「ごめんな、お父さん、ひとりで帰ってきたから、緊張してちょっと疲れちゃったんだよ」
もう大丈夫だ、と笑ってみせる。
ハナから物入れを取り上げ、散乱した荷物を片付けていると、さゆりさんがお茶を入れて来てくれた。みんなでテーブルにつき、熱いお茶を
ハナの世話をしていると、心が落ち着く。
「おとーさん、ひとりで大丈夫だった? 谷狼出た?」
「谷狼は遠くに見えたけど、急いで逃げたから大丈夫だったよ。帰りに崖の上に谷黒熊がいて、ちょっとビビったけどな」
谷黒熊は小型の熊で、サラサスーンの危険生物のトップに君臨する。足が遅いので馬に乗っていれば襲われる事はない。
リュートの様子や、似顔絵屋の客の話、服や荷袋を買いに行った話をする。ハルがスリング・ショットで岩壁の上からウサギを打った時の話を、少し興奮して話す。ウサギはしばらく倒れていたが、気がついて跳ねて行ってしまったそうだ。ハルのスリング・ショットは殺傷能力を、随分と抑えてある。
さゆりさんがハルとクッキーを作った時の話をする。ハナも型抜きを手伝ったのだそうだ。二人とも「お父さんに食べさせる」と張り切っていたそうだ。
ハルとハナが顔を見合わせて、クッキーを持ってくる。差し出されたハートや星形のクッキーに口元が緩ゆるむ。
口に入れると、ホロホロと香ばしく、甘い。
「上手にできたなー! すごい美味いよ!」
褒ほめるとハルとハナがパチンと、ハイタッチする。ハナがぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。
いつもの穏やかな時間が心地良く流れてゆく。
この世界で、砂糖やスパイスは特に高級品ではなく、普通に流通している。日本での値段よりは高いが、一般家庭でも普段の料理に使える程度の値段だ。甘いものを食べると、心の
お茶の時間を終わりにして、それぞれが夕方の仕事に取り掛かる。ハナはさゆりさんと晩メシの材料を畑に取りに行き、俺とハルは家畜を小屋に入れる。ニワトリとの攻防戦は、未だに敗戦続きだ。爺さんにコツを聞いたら『気配、消す』と言われた。どうやって消すのか、そこんとこを教えて欲しい。
今日は風呂に入りたいので、その用意もする。何度も木桶に水を汲み、ドラム缶(おそらくリュートの手作り)に水を溜めていく。結構な重労働で、初めてやった日は腕がガクガクになり、晩メシでスプーンが握れなかった。
乾燥させた細い枝をドラム缶の下に入れ、その上におが屑を乗せる。金属を擦り合わせて火花を散らす、この世界の着火器具で火を点ける。俺はオイルライターを持っているが、この着火器具で火を点けるのが結構好きだ。少しコツがあるが、今では慣れたものだ。
火吹き筒で息を吹き入れ、パチパチと炎が上がるのを眺める。安定してきたら薪をくべる。
ふと顔を上げると、空が茜色に染まりはじめている。ここはサラサスーン。茜岩の谷、という意味だそうだ。
風呂にスノコを入れ蓋をして、岩壁に登る。ハルも後から登ってくる。俺とハルは茜岩谷の夕方の景色が、たまらなく好きだ。大きな太陽が茜色を濃くしていく。岩場が作る影が、様々に表情を変える。ここで二人、少しずつ冷たくなっていく風に吹かれながら、毎日のように一緒に夕焼けを眺めて過ごす。
旅に出てしまえば、この景色ともしばらくお別れだ。キャラバンの出発は二週間後。ようやくナナミに会えるかもしれないと思い、あまり期待し過ぎると辛くなるな、と自制する。ハナを置いていくことに対する不安。道中の危険を思い、ハルを連れて行くかどうかも決めかねる。また感情の制御ができなくなり、頭を振る。
辺りが
「ハル、さゆりさんの手伝いしに行こう」
努めて明るい声を出し、ハルの頭にポンと手を乗せる。
家の灯りがぼんやりと、俺とハルとを呼ぶように灯った。
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