第二十一話 二つの代償

 その日は朝から雲ひとつない、胸のすくような良い天気だった。


 三日間、しとしとと降り続いた雨は夜半過ぎに上がり、強い風が雨雲を、あっという間に吹き飛ばした


 俺たちは海岸線が見える小高い丘の上の、小さな竹林で雨をやり過ごした。斜めに切り立つ大きな岩と、倒木とうぼくの間に竹を渡して簡易の高床を作り、その上に油をひいた布製の傘を立て掛け、更に毛織物を掛けて雨をけた。


 三日も足止めされてしまい、狩りにも出られなかったので肉が尽きかけているし、荷物のひとつが雨で濡れてしまった。


『今日は忙しくなりそうだ』


 俺は濡れた荷物を日向に干しながら、一日の段取りを頭の中で組み立てていた。


 ふと見ると、ハナの尻尾がブワッと立ち上がり、手のひら大の大きさに育った、クロマルとしらたまがハルのポンチョのポケットに大慌てで潜り込む。


 ハナが半身に構えて叫んだ。


「とーたん、くる!!」


『なにが?』とは、聞く暇もなかった。


 竹の間に渡したロープに干してあった、洗濯物を引き倒して姿を表し、身をひるがえしたのは大きな、ーー大型バイクくらいの大きさの、見事な体躯のネコ科の動物だった。


 ザバトランガの草原にいた、サビ耳やキジトラ耳の中型の肉食獣とは、比べ物にならないくらい大きい。樽のような胴回りが、いかにも硬い筋肉を思わせ、手足も太くゴツい。


 白く美しい虎模様のそいつは、同じ模様の二匹の小さな、子供を連れていた。


 あくびが繋いであったロープを引き千切り、ものすごい勢いで駆けてきた。口を大きく開けて、ガラガラという威嚇音を上げながら、ハルとハナの前に立つ。ハルがハナを抱えてあくびの背中に隠れた。


 俺は急いで腰の物入れからスリング・ショットを取り出し、移動しながら連射する。あくびと並んで二人を守るべきか、こちらに気を引くべきか、一瞬迷う。


 虎模様の背中や腰や脚を撃つ。ダメだ! 毛皮が厚くて、ダメージを与えられない。もつれる足で、転がるように走り、簡易かまどにかけてあった鍋を掴み、中身のスープを虎模様に向けてぶち撒ける。鍋を持ち、あくびの隣に立つ。


 スープはすっかりぬるくなっていたので、ダメージにはならなかった。虎模様の子供が、地面に溜まったスープをペチョペチョと舐めはじめた。


 虎模様は濡れた身体を意に介さず、腕をふりあげた。顔を低くして威嚇の姿勢を取っていたあくびを、横向きに薙ぎ払う。


 あくびが、嘘のように、真横に飛んでぐしゃりと倒れた。


「あくび!!」


 ハルが、ハナを背中に庇いながら叫んだ。



 虎がめの姿勢を取る。トプルが教えてくれた攻撃の予備動作だ。来る! ヤーモが言っていた。『猫科の動物は喉笛に食らいつく。飛びかかられたらひと溜まりもない』。俺は左手で鍋を盾のように持ち、リュートが持たせてくれたナイフを右手に構えた。


 大きな体躯に、不似合いなほどの素早さで、巨体が宙を舞う。初撃はなんとか鍋で受け止めた。牙を突き立てられ、鍋は歪んで飛んでいった。受けた衝撃で、左腕が悲鳴を上げ、感覚が遠ざかる。


 頭の中で、なんとか虎模様を追い払う方法を探す。肉はこの雨でストックがない。紙テッポウは、雨で濡れてしまった。スリング・ショットを使うには、間合いが近過ぎる。そして、あくびが倒れた今、俺はこの場を、ハルとハナの前を、退いてしまうわけにはいかない。




 避けろ! 守れ! 防げ! 流せ!


 ハザンの声が聞こえた気がした。


 爪をナイフで弾く。キンッっと、まるで金属を打ち鳴らしたような音が耳を射る。その、歯の浮くような音がまるでスイッチのように聞こえた。


 途端に、景色がスローモーションになったように感じる。虎の牙がクロスした外側の、左腕に食い込んでいくのが見える。くわえられて振り回されたらお終いだ。


 俺は左手を握り込み、無理矢理虎の口に、拳をねじ込んだ。喉の奥から、意識とは無関係みたいにうめき声が漏れる。


「ハル、ハナ! あくびの方へ走れ!」


 歯を食いしばり、グリグリと更に奥に押し入れる。虎はググゥとくぐもったうめき声を上げ、ギリギリと腕に牙を突き立てる。


 ミチミチと筋の切れる音がした。ゴリゴリとどこかで聞いた音がした。ああ、あくびが骨を、噛み砕く音だ。




 ーーー。なぁ、これ、食っていいから、勘弁してくれねぇ? 腕だけじゃ、腹いっぱいにはならないだろうけど、それで手打ちにしてくれよ。


 腹減ってるんだろ。おまえも大変だよな。母ちゃんだもんな。子供が腹減ってるところなんて見たくないよな。俺もだよ。でもな、俺も食われてやる訳にはいかないんだよ。


 頭が焼き切れるような激痛が、錯乱とも現実ともわからないほどに、思考をかき乱す。


 虎の視線が一瞬、ハナを抱えて走るハルへと向く。


 あっちの小さいやつの方が、柔らかくて美味そうだ? 当たり前だ! 俺だってたまにそう思う。あのふたつの小さいのは、俺の宝物だ。いくら美味そうでも、噛み付いたら許さねーぞ。この世界の果てまで追いかけて、どんな手を使ってでもその喉笛を食い千切ってやる。


 虎が俺の腕を咥えたまま、グッと顔を引いた。ブチブチブチと、肉が引き千切れる音がする。


 コレ、俺の腕から聞こえてんのか?


『グワァーー!』


 コレ、俺の声か?



 頭の中で鐘が鳴っているみたいだ。ぐわんぐわんと衝撃にも似た頭痛が走る。視界がチカチカと明滅する。


 左腕の、肘から先がボトリと落ちた。


 心臓が腕に移動したみたいだ。痺れるような、焼けつくような激痛が、脈と一緒に全身に走る。ダクダクと血が流れ、あっという間に草原に血だまりを作る。


 虎が、鼻面に着いた俺の血を、ペロペロと舐めながらもう一度溜めの姿勢を取る。


「いやだ! お父さん、お父さん!!」


 あくびの元にたどり着いたハルが、叫びながらスリング・ショットで虎の背中や足に玉を撃ち込む。気を散らされ、鬱陶しそうな顔をした虎が、一瞬俺から視線を外した。


 一歩踏み込み、肘で虎の鼻面を打ち、同時に膝で顎をカチ上げる。


 アンガーに教えてもらった連続技。一番カッコイイので、ハルと一緒に何度も繰り返し練習した技だ。



 虎は頭を左右に何度か振り、俺の方に視線を戻す。


 そうだ。こっちを向いてろ。今、おまえの相手をしているのは俺だろう?


 足がガクガクと揺れる。血が流れ過ぎた。


 まだだ。倒れるわけにはいかない。



 ハナが、ハルの腕をすり抜け、ユキヒョウの姿になり、俺の前に躍り出た。


 ダメだ! ハナ、やめてくれ!


 全身の毛を逆立て、虎に向かってフーッと、威嚇の声を上げる。


「ダメ! ハナちゃん! 」


 ハルが呼び、ハナを追いかける。


 二人とも、頼むから下がっててくれよ。おまえたちが傷つくところなんて、俺には絶対に耐えられないんだ。



 俺は、ふらつく足であと二歩前に出て、ハルとハナを背中に、残った右手でナイフを構えた。


 まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。



 俺は遠ざかる意識の中で、俺の左腕を咥えた虎と、じゃれ合う二匹の赤ちゃん虎の、後ろ姿を見た。



 虎がなぜ引いてくれたのかは、わからない。ハナのユキヒョウ姿に、自分の子供を重ねたのか。立ち上がって顔半分を血に濡らしながらも、少しも戦意の衰えていないあくびを恐れたのか。


 それとも、あまりに必死な俺の様子に、呆れたのだろうか。


 どちらにしても、虎は俺の腕を持って行った。


 人の味を覚えた虎や熊は、何度も人を襲うようになるとガンザが言っていた。俺の腕がとんでもなく不味まずくて、もう二度と人を襲わないと良いなと思う。あの母虎が人食いと呼ばれる事が、ないと良いなと思う。


 人食いは、いずれ討たれてしまうから。


 ああ、でも。あんまり美味うまくなくても、俺の腕、残すんじゃねーぞ!



 あくびがのそりと俺の隣に並ぶ。赤く染まった顔に、大きく爪痕が走り、片方の目を無残に潰していた。


 なぁ、あくび。俺の腕と、お前の目ん玉引き換えにして、どうにか二人を守れたらしいぞ。上等の結果じゃねぇか?


 あくびは片方だけになってしまった目で、俺をチラリと見た。


 まあね、さすがにあれは強敵だったわね。ヒロトもよくやったわ。あとの事は引き受けるから、もう倒れていいわよ。


 あくびが、そんな風に言った気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る