第九話 大岩の家の朝
息苦しくて目が覚める。
顔の上に何かが覆いかぶさっている。……ハナだ。俺の顔の上で寝ているようだ。ふにゃりと柔らかい感触が顔を覆っている。ハナ、お父さんのおでこ、ヨダレでデロデロだよ。
ああ……、自宅じゃないんだっけ。地球ですらないと昨夜言われた。訳のわからない現象に巻き込まれ、命の危険すら感じる事態に
その、次の日の朝だ。
ハルを起こし、半分寝ているハナを抱え、屋根裏部屋のハシゴを降りる。土間の向こうから、ベーコンとキャベツのスープの匂いが漂ってきて、腹が減っていることを思い出す。
「おはようございます」
台所に立つ人の後ろ姿に、思わず見入ってしまう。大きく膨らんだ黄色っぽい尻尾が、ふわりふわりと揺れている。頭には厚みのある、もふっとした大きめの耳がふたつ。この人もかつては、俺たちと同じ耳と尾てい骨を持っていたのだという。
「ゆうべはご迷惑をおかけしました。泊めて頂いて本当に助かりました」
社交辞令を口にしながらも、頭の中は今朝も耳と尻尾のことでいっぱいだ。
ハルやハナに、あんな感じの耳や尻尾が生えた姿を思い浮かべてみる。うむ、悪くない。むしろかわいくて身悶えしてしまいそうだ。ナナミには何の耳が似合うだろうかという妄想に入ったところで、さゆりさんが振り向いた。
「おはようございます。すぐに朝ごはんになりますから、顔を洗ってきてくださいね。ついでに畑に主人がいますから、トマトを二つもらってきてくれるかしら」
ここは地球じゃないのに、トマトはあるのか。そんなことを考えながら、了解の返事をする。家を出て正面が畑、その右手に井戸があるそうだ。
玄関のドアを出ると、ぐるりと周囲を岩壁に囲まれた箱庭のような光景が広がっていた。数羽の、ウズラの足を長くしたような鳥が、地面をついばみながら歩いている。家畜小屋からはモォーと牛の鳴き声が聞こえる。畑は思っていたよりもずっと立派で、何種類もの野菜を育てているようだ。
生きものの気配が満ちあふれていた。都会の生活に疲れたサラリーマンが、スローライフに憧れる気持ちが今ならわかる。穏やかに胸を締めつけるような、郷愁に似たものがこみ上げてくる。見上げる空は広く、高く、どこまでも青い。
爺さんは麦わら帽子をかぶって、畑の草取りをしているようだ。『おはようございます』と声をかけると、手を振って応えてくれた。
まずは顔を洗おう。
手押しポンプ式の井戸だ。可動部分を上下するとガシャコンという音がする。木桶を用意し「二人ともここに手出せー」と呼び寄せる。
ポンプも井戸も珍しいのだろう、期待に満ちあふれた目をした二人に頬が緩む。俺も実際に使うのは初めてだ。ハンドルを上下させると、プシューッという音と共に勢いよく水が吹き出した。
「わー! つめたーい!」
「キャー!! おみじゅー!」
二人とも大騒ぎだ。
「ほら、顔洗えー」
ハルが、バシャバシャと盛大に水を顔にかける。タオルを渡しハナの顔を洗ってやる。
「口もすすげよ?」
「ほら、ハナ、ぐしゅぐしゅぺー、して」
手のひらですくった水を、ハナの口に含ませる。ビショビショになったな。まぁ、すぐ乾くだろう。
木桶の水を捨て、爺さんのいる畑に向かう。確かカドゥーンさん。昨夜さんざんマッドサイエンティスト扱いした為、若干どころじゃなく気まずい。俺の心の中の話だが。
ハナがとてとてと走るのを、ハルが追いかける。二人で手を繋いで歩く。
「さゆりさんに、トマトを二個もらってくるように言われました」
カドゥーン爺さんは日本語のヒヤリングはけっこう出来るらしい。しゃべるのは苦手なんだとか。
爺さんが頷きトマトをポポーンと投げてよこした。あわあわと受け取る。落とさなくて良かった。うん、トマトだな。辛味大根ほどの長さがあるが、こういう種類もある……あった気がする。
爺さんが近づいてきて、プラムのような小ぶりの赤い実を二人に手渡す。さくらんぼのようにブラリと下がって
「ありがとうございます。朝食だそうですよ」
ハナが木の実を片手に、爺さんの手をにぎり歩きだす。ニコニコと笑いながら爺さんを見上げる顔には、警戒心のかけらも見当たらない。ハルはラマのような、耳の大きな動物に草を食べさせている。ヤギ科の動物らしい。
俺はトマトふたつを両手に持って、爺さんの尻尾がゆらゆらと揺れるのを眺めながら、こっそりとため息をついた。
この人たち夫婦に、どう接していいのか決めかねている俺を置き去りにして、日常が
ハルとハナを見る爺さんの気難しそうな顔が、少しだけ柔らかく緩む。
俺は絵を描くので、人の表情には比較的敏感だと思う。その横顔からは、とてもではないが悪意を読み取ることはできない。
ハルとハナが笑っている。二人が笑っているのなら、俺も笑ってしまおう。きっと悪いようにはならない。そんなことをつい信じたくなる、優しい時間が流れてゆく。
大きな岩壁に、守られるように建つ小さな家。この家での朝は穏やかに、ゆっくりと過ぎていった。
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