第6日「せんぱい、明日は予定ありますか?」
* * *
今日も、ちゃんと来てますね。
ちょっと細身の後ろ姿が、サラリーマンの群れの中で浮いて見えます。
「おはようございます、せんぱい」
「……おはよう」
寝ぼけまなこをこすりながら、せんぱいはこちらを振り返りました。
「眠いんですか?」
「金曜日の朝だぞ? 眠くないわけがないじゃん」
「そうですか?」
わたしはどんな日でも、元気いっぱいですけれど。お肌のためにも、睡眠時間はだいじなのです。
「そういうもんだよ。俺は明日からの週末が待ち遠しいよ」
そうらしいので、今日の質問は手短に終わらせてしまいましょう。
その前に、駅にやってきた電車に乗り込まないといけませんが。
無事にいつものポジションを確保して、わたしはせんぱいに話しかけます。
「『今日の一問』です。せんぱい、明日は予定ありますか?」
「暇ですか」と聞いたら、ぜったいにのらりくらりとかわされてしまうに決まってます。
この人は、まずは予定を問いただして、外堀から埋めるのがいいでしょう。
「いや、そりゃなくはない……予定くらいあるけれど、どうしてだ?」
わたしは、にっこりとほほえんでせんぱいの方を向きました。
1秒、2秒、3秒……見つめ合っていた時間は、それほど長くありませんでした。
「答えたくないってことか? そうすると逆に気になるなあ」
右手で頭のうしろをぽりぽりと掻いて、せんぱいは続けます。
「さっきの質問をした理由を教えてくれ。『今日の一問』だ」
「乙女の秘密を暴こうだなんて、せんぱいも積極的ですね♪」
「は?」
「まあ、正直に答える約束ですから、答えますよ。ちょっとこっち向いてください」
せんぱいに怪しむ暇を渡さない早さで、わたしはせんぱいの耳に口を近づけた。
# # #
「デート、しませんか?」
いつもより小さく、それでいてはっきりと、俺の耳許で囁かれた後輩ちゃんの声が、とてもくすぐったかった。
背筋をぞくぞくっという刺激が走って、思わず姿勢を正してしまった。耳が熱くなっている感覚がする。
眠気なんて、一発で覚めてしまった。アドレナリンだかエピネフリンだか知らないけど、そんな感じのホルモンがたくさん分泌されている気がする。
「あ、あああのな」
ダメだ。声が震えている。一度目を閉じて、咳払いをして、深呼吸して、体を落ち着ける。心は落ち着かない。
「俺と後輩ちゃんって、そういう関係じゃなくない? 彼氏とかいるんじゃないの?」
すごくいそうな感じするんだけど。男慣れ具合といい。
「せんぱい、広辞苑はご存じですよね?」
「いきなりどうした。そりゃ知ってるよ」
名前だけなら、この国で一番有名な辞書だろう。
「広辞苑の、というか辞書の『デート』の項、詳しく読んだことはありますか?」
「ありません」
俺が答えると、彼女は肩に提げたかばんから、真っ白で真新しい電子辞書を取り出した。
「進学祝いに買ってもらったんですよ。今日は英語の授業があるので、持ってきたんですけど」
えーと、と声を出し、彼女は辞書を操作する。
「ありましたよ。読みますね」
「
「……だそうです。ともかく、恋愛感情の有無は関係ないらしいですよ、『デート』ってことばには。そもそも、お互いのことを知らないから、おはなしして、知ろうとするんでしょう? 別に好きじゃなくたっていいじゃありませんか。違いますか、せんぱい?」
脊髄反射で「違う」と言えるなら、どんなに楽だったか。
それは、あまりに俺の考えと近すぎていて。
否定してしまうと、ここ数年の俺の思考を捨て去ることになってしまうことになるような気がして。
俺には、どうしても否定することはできなかった。
「……違わないな」
「じゃあ明日はわたしとデートしましょう。せんぱい、何時頃なら空いてますか?」
短い人生だけど、他人に正論を突きつけることは多かった。
そんな人間が、もし、別の人から正論っぽい何かを突きつけられたら、うまくかわしきることは不可能だ。なにせ頭の中には、正しい論理と正しい論理とをつなげる回路しか存在しないのだから。
「午後なら」
そんなわけで、明日、後輩ちゃんと出かけることが決定してしまったわけだ。
「ちなみに、どうして午前中はダメなのかお聞きしてもいいですか?」
「寝るっていう大事な予定が入ってるからな。土曜日の午前中はベッドの上でまどろみの世界でだらだらするのが、ここ最近のマイジャスティスなんだ」
後輩ちゃんが、大きなため息をついた。
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※作中の「デート」の語説は、岩波書店. 『広辞苑 第六版』. 2008,2012. 電子版の「デート」の項より引用させていただきました。
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