第2日「せんぱいは、何か課外活動をしていますか?」
# # #
「ふわぁ……」
ねむい。
朝が眠いのはいつものことだけれど、今日は普段より10分早く起きたから、その分だけ眠気が増しているように感じる。
家でいつものようにコーヒーは飲んできたんだけど。それでもまだ、頭の芯がぼんやりとしている。
10分早く起きたのは、学校に行くときの電車を1本早いものにするためだ。
昨日、いきなり後ろから声をかけてきた後輩は、どうしてかわからないけれど、俺と会話がしたいようで。
わけのわからないうちに、「1日1問だけ、お互い、質問に絶対答える」みたいな約束――いや、もはや契約をさせられたような記憶が、おぼろげにある。名前は……米山、とか言ったっけか。
我々ふたり、先輩と後輩は、非常に不本意なことに、自宅の最寄駅が共通である。加えて、4月から9月まで……夏休み差し引いて4ヶ月くらい、特別なことがない限りはだいたい同じ電車の同じ車両に乗っていることは、お互いに認識している。
この状況でのこのこ、いつもの電車に乗り込んでしまえば、その瞬間彼女の毒牙にかかって、色々あることないことを尋問されてしまうに決まっている。俺の通学時間は、平穏な読書のためにあったし、これからもそうでありたい。
俺は、無い知恵を絞って考えた。
案1。電車に乗り込む位置を変える。つまり、下車する時の改札が近いというアドバンテージを捨て、逆にそこから遠く離れたところに乗り込むことで、彼女から逃れることが期待できる。
これは、何回かの脳内シミュレーションの末、却下となった。
サラリーマンはそろそろスーツのジャケットを着込む時季だけれど、男子高校生はまだ半袖シャツ1枚での登校が一般的だ。通勤ラッシュの黒の群れの中にある白い上半身を見つけられないほど、彼女の視力は悪くないだろう。
案2。電車の時間をずらす。
いつもより遅くしたら遅刻のリスクが高まるし、俺を見つけられなかった彼女が、そのまま駅で待ち伏せしていることも考えられる。ずらすなら、いつもより早い電車だ。
俺の頭の中には、俺が既に出発したとも知らず、遅刻ギリギリの時間まで俺を探し回る後輩ちゃんの哀れな姿が、まるで見ているかのように浮かんでいた。BGMはもちろん、ゲームの戦闘で勝利した時の曲が、高らかに鳴り響いている。
これしか、ない。
そういうわけで、俺はいつもより10分だけ早く駅に着き、電車が来るのを待っていた。
昨日の帰りのあれは、ただ何かの拍子に、ちょっとだけ歯車が狂っただけだったんだ。あんな後輩のことは置いておいて、今日からまた、俺の平穏な通学が戻ってくるのだ。いや、去ってすらいないのだ。
あんなことがあったので、今日はかばんの中の本を選び直してきた。文庫本よりは幾分かさばる大きさの、頭をからっぽにして楽しい気分になれる、ウェブ小説の書籍化作品を持ってきた。これくらいのものなら、たぶん行き帰りで読めてしまうだろう。コストパフォーマンスのことを考えたときばかりは、自分の読書スピードが恨めしい。
本を取り出して、いざ1ページ目を開こうとした時。
右耳にふっと息をかけられて、くすぐったさに思わず本を取り落としてしまいそうになった。
「せーんぱい♪」
今日は聞くことがないだろうと思っていた声が、後ろで俺を呼んでいた。
* * *
ふふふ。
1本ずらしてわたしから逃げようとしたって、そうはいきませんよ、せんぱい。
「ちょ?」
右後ろから話しかけたのに、せんぱいはわざわざ左回りでわたしの方に向き直りました。
ちぇ。せっかくほっぺに当たりそうなところに指を出してたのに。
「おはようございます、せんぱい」
「なんで、いるんだ、お前」
この世の終わりでも訪れたかのような顔ですね。メガネの奥の眼をまんまるに見開いています。
「かわいい後輩にお前呼ばわりはひどいですよ」
「そんなのどうでもいいから」
「なんでって……せんぱいとおはなしがしたかったから、ですよ?」
あれだけ強引に迫った以上、せんぱいが時間をずらすんじゃないか、くらいは予想がつきますし。
「ちくしょう……俺の努力は……」
あらら。また打ちひしがれてますよ、この人。
「まもなく、3番線に電車が参ります。危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください」
「ほら、せんぱい。電車が来ますよ。乗りましょう」
# # #
また負けた。
目の前にいる後輩――ちなみに乗り込んだ瞬間、当然のような顔をしてドア横スペースを確保していった。そこは俺が読書する時の定位置だっつの――に、また負けた。というか、やり込められた。
小学生の頃に刷り込まれた対処法で、左から向き直ったのはよかったけど。それでも、1勝2敗である。その1勝も、あまりにもみみっちい1勝である。
なんで予測してるんだよ。怖いわ。
「ストーカーか?」
心の声が、漏れてしまった。
「せんぱい、わたしはストーカーじゃありませんし、なんならヤンデレでもありません。安心してください」
「そういう奴に限って自覚してないだけで結構ヤバいんだよ」
「だいじょうぶですって。こんなことするの、せんぱいがはじめてですから。責任、取ってくださいね?」
「は?」
「いやいや、冗談ですよ冗談。まともに受け取らないでください」
後輩ちゃんが、俺から目を逸らして、ひとつ咳払いをする。
「んんっ。話が逸れました」
「誰のせいだか」
「あんまり時間もないので、先に本題に入りますね。今日のわたしの質問は、これです」
「せんぱいは、何か課外活動をしていますか?」
「黙秘する!」
ダメだダメだ。この質問はダメ。
こんなの答えてしまった日には、登校時間だけで収まらず、下校時刻までも侵食されてしまう。
どうせこの女のことだから、黙秘しても数日後には調べ上げて来そうな感じもするけど、それでも嫌だ。
ところが、目の前の
微笑みを浮かべて、追い討ちをしてきた。
「あの、せんぱい。1日1問は、ぜったいに正直に答えるってルールでしたよね?」
やっぱりあの約束、夢とか妄想じゃなかったのか……
嫌だ嫌だ。俺は認めないぞ。口約束の契約だ。無効を主張する。
「俺、あんまりその約束をした時のことを覚えてないんだけど?」
「なんだ、ハリセンボンが食べたかったんですね、せんぱい。早く言ってくださいよー。沖縄じゃアバサーとか言って味噌汁に入れるらしいですしきっとだいじょうぶですよ。ほら、魚食べたらせんぱいのその記憶力の減退してしまった神経細胞もEPAとかで活性化していい感じに回るようになりますって。今日の帰りにいっしょに築地寄って買っていきましょう」
「ハリセンボン(汁)飲ます」を冗談じゃなくて実現しようと算段つけてる方が怖いわ!
「図書委員会と……生徒会長だ」
「え? 聞こえませんでした」
この女の顔に戸惑いの色が浮かんだのを見たのは、はじめてのことだった。
「だから。図書委員会と、生徒会の会長。部活はやってない。これで満足か?」
「図書委員はわかるんですけど、せんぱいが生徒会長? 最寄りがいっしょのわたしに一言も話さず黙殺する程度のコミュ力の持ち主がわたしの高校の生徒会長? もっと適任の人いるんじゃないですか? というか、高校、そんなんでだいじょうぶなんですか?」
おうおう、なかなかひどい言われようだな。
「じゃあ、米山真春くん」
なんとなく記憶したままだったフルネームを呼んでみると、すごく意外そうな顔をされた。
「生徒会長が何をやっているか、知っているかい?」
「学園を陰から牛耳り、全生徒をその声ひとつで思いのままにすることができるみたいな、圧倒的な権力の持ち主が生徒会長なのでは?」
「それはフィクションの世界の話な」
「ごめんなさい知らないです」
はじめて、この後輩から一本取った気がする。一本取ったからなんだって話ではあるが。
「つまり、その程度の役職なんだよ。『生徒会長』っつっても」
たぶん、一番大きい仕事は、卒業式の「送辞」である。他校との交流? 生徒の取りまとめ? そんなのしたことないよ。必要なことは生徒会の委員の皆さんがやります。生徒会長はお飾りのトップ。
「つまり、その程度の人間なんですね、せんぱいは」
「うるせえ。人がちょっと気にしていることを」
実際、クラスメイトがほとんど運動部に入って、毎日のように汗を流している姿を見ると、不安に思わないと言ったら嘘になる。あちらが「健全」で「一般的」な高校生で、こっちは「ちょっと変わっている」オタクなんじゃないか、と。
あっちに混ざって、運動部の構成員のひとりになって、ふつうの「青春」を過ごした方が、よかったんじゃないかと思ったこともある。それと同じくらい、「埋もれたくない」と願ったのだから、こっちに居た方がいいと、自分に言い聞かせたこともある。
結局、人生に正解など、ないのだ。自分の選んだ道が、全てなんだ。最近は、こんな風に思うようになった。
「せんぱい?」
後輩ちゃんが、ちょっと不安そうにこちらを気にしている。
「ん? あ、ちょっと考え事してた。すまん」
「かわいい後輩を前に考え事にトリップなんて、いい度胸ですね。わたしのことがそんなに気にならないですか? 昨日、未知への探究心をあれだけ熱く語ってくださったせんぱいはどこへ行ってしまったんですか?」
「そんなにアツく語った記憶はないんだけど」
* * *
ちょっと、ディスりすぎちゃったかな?
なかなか距離の詰め方というのは、難しいものです。でもまあ、怒ってはいないみたいでよかったですけど。
「ほら、おはなししましょうよせんぱい。わたしに聞くことはないんですか?」
「もう半分過ぎちゃったじゃないか、俺の貴重な通学時間が……」
電車のドアの上に出た表示は、確かにそのあたりを示しています。
「そんなに聞いてほしいなら聞いてやるよ。後輩ちゃんこそ、何か部活とか入ったりしてるのか?」
「えー、せんぱいに教えなきゃダメですか?」
「会話を提案したのはそっちだろ。それに約束だかなんだかがあるじゃないか。一緒にハリセンボン鍋でもつっつこうか?」
はいはい。
「わたしはですね、美術部に入ってます」
「絵、描けるの?」
「人並みですよ。そんなにうまくないです」
それに、最近はほとんど行ってないですし、と心の中で付け加えます。
もともと、拘束時間の長い部に入る気はありませんでした。特定の部活仲間と、長い間付き合ってたって、あんまりおもしろくないです。
それだったら、幽霊部員が許されるくらいの緩い部活に入って、のんびり、色々な人と交流していた方が楽しいと思いました。
「今度、見せてくれよ。ハリセンボンの絵でもいいぞ。あ、芸人の方じゃなくて魚の方な」
「……検討しておきます」
果たして、わたしにそんなものが描けるのでしょうか。
今度、水族館にでも行って、見てみましょうか。ハリセンボン。
がたんごとん。
会話が途切れると、今まで気にならなかった電車の音が、急に耳に入ってきます。
うーん。せんぱいはまだまだ、話下手ですね。まだ、話しはじめて2日目ですけど。
わたしが会話の主導権を握っているときはいいけれど、せんぱいと攻守交代すると、すぐに終わってしまいます。今後の課題ですね、これ。
と、わたしが思考の海に沈んでいると、せんぱいはいつの間にか本を取り出して読み始めています。
これ以上は譲れん。以後の会話は拒否する! って感じでしょうか。
まあ、今日の分の質問は終わりましたし、それもいいでしょう。
「明日からも、よろしくおねがいします。せんぱい♪」
小さめに囁いた言葉は、たぶんせんぱいの耳には届かず、電車が線路を走る音にかき消されていきました。
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