わたしの知らない、先輩の100コのこと
兎谷あおい
本編
第1日「せんぱいのお名前は、なんて言うんですか?」
# # #
「あの……」
最寄り駅の改札を出ようとしてポケットから定期入れを取り出したちょうどその時、後ろから声をかけられた。
「これ、落としましたよ。
落とし物? 俺が?
定期入れは手に持っているし、スマホだってポケットに入っているし、文庫本はかばんの中にしまったから、落としたはずがない、のだけれど。
声をかけてくれているということは、きっと俺のものなんだろう。振り向いた。
こちらに向けて差し出された小さな手のひらの上には、黒い何かが乗っている。
間違いない。俺の愛用している、無線イヤホンのイヤーピースだ。きっと、耳から外してポケットにしまうあたりで、外れてしまったのだろう。
「あ、俺のです。ありがとうございます」
これ無くすと、地味に困るんだよなあ。探すにしても望み薄だし、かといって無いなら無いでそれなりの不便を強いられるし。イヤホン本体についてくる予備はサイズ調整用だから、変えてしまうと付け心地まで変わってしまう。
今度こそ落とすことが無いように、こちらの手のひらをすぼめて、シリコン製のイヤーピースを受け取った。
「はい、
そういえば、さっきも、「先輩」って言われたような。
視線を上げると、俺の落とし物を拾ってくれた、目の前の女性と目が合った。
「わたし、せんぱいの後輩なんですから。敬語じゃなくていいんですよ?」
そう言って小首を傾げる彼女は、やはりと言うべきか。一応、知っている顔だった。
なんてったって、俺と同じ学校の制服を着ているのだから。
# # #
俺の通う高校には、近くに2本の路線が走っていて、駅も2つある。
ひとつは正面玄関の方面で、しかも距離も短いから、ほとんどの生徒はこちらを使う。
もう片方は裏口から出た方が早いのだけれど、結構歩くしアップダウンもあるから不人気である。というか、使っている人は全然いない。
俺が使っているのは、後者の路線だ。だって、家の最寄り駅から乗換無しなんだもん。そりゃそっちにするわ。
去年の4月に入学して、クラスメイトに同じ路線のユーザーがいないことを知った時には、かなり悲しくなった。とはいえ、すぐに慣れたけど。
住めば都、使えば――スマホ? とはよく言ったもので、通学の途中で友人と鉢合わせしないというのは、寂しいということだけ割り切ってしまえば、なかなか便利だ。読書に没頭してもいいし、気が乗らない時は携帯をいじっていればいい。ノイズキャンセリングのイヤホンさえ耳に突っ込んでおけば、電車のガタンゴトンという音だって、そこまで気にならなくなる。
だから――今年の4月の始業式の日、家の最寄りで俺と同じ高校の制服が目に入った時には、とても嬉しかった。俺は、ひとりぼっちじゃなかったんだって。
とはいえ。
真新しいブレザーに、ぴかぴかの通学カバンを持って、しゃんとした姿勢で、俺がいつも使うところからひとつ隣のドアから乗り込んでいく後ろ姿を見てしまった瞬間こそ、びっくりしたけれど。
日常が始まってしまえば、その感動体験もただのバックグラウンドに変質してしまった。1つ学年が違えば、クラスが一緒になることは絶対にない。部活とか、委員会とかで一緒にならなければ、ただ学校が同じだけの赤の他人である。
すぐに高揚感は消え去って、イヤホンを耳に突っ込んで本を読む通学時間が戻ってきた。
変わったことといえば、そうだな。小説の章と章の切れ目で顔を上げ、今どの駅だか確認するついでに、彼女がその日も乗っているかどうか確認する習慣がついたくらい。
だから。
名前は――知らない。年は、留学とかしてなければ、俺の一個下。
俺と同じ学校に通っている。行きに乗る電車は、いつも、俺と一緒。
俺が彼女について知っているのは、それくらいだ。
* * *
やっと巡ってきた、自然に話しかけるチャンス。この機会を逃したら、この人と話す機会は一生ないんじゃないかと思っただけに、逃すわけにはいきませんでした。
この路線、わたしの学校で使っている人全然いなくて、それこそ、せんぱいくらいしかいないんですよね。
今、わたしたちふたりは、改札を出てすぐの自販機の横にいます。
お礼のつもりなのか、せんぱいがジュースを買ってくれたので、ありがたく受け取ってしまいました。ぷしゅっと音を立てて、先輩が缶を開けます。
「えっと、せんぱいで合ってますよね」
「俺の名前は『せんぱい』じゃないけどな。同じ高校に通っている先輩とか、人生の先輩的な意味なら、合ってると思うぞ」
制服、同じですもんね。というか、朝、同じ駅で乗って同じ駅で降りますもんね。
「よかったです~」
わたしが笑ってみせると、先輩はなぜか嫌そうな顔をしました。えー、わたしの笑顔、そんなにへんですか?
「で、何の用だ? 後輩ちゃん」
「あ、いいですねその呼び方。わたしの名前も『こうはい』じゃないですけど」
せんぱいは手に持ったサイダーをぐいっと飲み干してゴミ箱に入れると、足元に置いていたカバンを担ぎ上げました。
わたし、まだ缶開けてすらいないのに。
「イヤーピースのお礼は言ったからな。用が無いなら帰る」
「わーわーわー! 待ってくださいちょっと」
眉間に皺を寄せて、のっそりとせんぱいがこちらを振り向きます。
「えっと、ですね……」
ここで逃がしてしまったら、終わりです。そんな気がします。
「この電車――浜急線を使うひと、ぜんぜんいないじゃないですか」
「それで?」
「この駅で降りるのも、うちの高校だとわたしとせんぱいだけじゃないですか」
「で?」
「もっと交流しましょうよ! せっかく接点があるのに、何も話さないなんてもったいないじゃないですか!」
「それだけ?」
せんぱいの眉が少し上がって、意外そうな表情が浮かびます。
もう少し、でしょうか。
「日本に1億とちょっと、世界には70億も人がいるんですよ? 全員とおはなししたいのはやまやまですが、それは無理です。だから――」
わたしは、こほんと咳払いをして、さらに続けます。
「ちょっとでもお近づきになれそうな人とは、できるだけたくさん、おはなしがしたいんです。わたしは」
# # #
イヤーピースを拾ってくれた後輩ちゃん。
そのこと自体には感謝しているんだけど、本来ならそれで終わりでいいはずだ。
同じ学校の先輩と後輩。学年が一個違うだけ。
限りなく薄いつながりだから、お礼を言って、ジュースを買ってあげておしまい。
それでよかったはずなのに――
あろうことか、彼女は俺に絡んできた。SNSで言えば、「FF外から失礼します」の後で色々しゃべってきて、「よろしければフォローさせていただいても?」と言われているような感じだろうか。
「だから。もっとおはなししましょうよ。学校まで30分くらいあるんですよ? 時間がもったいないじゃないですか」
「何話すんだよ」
「そんなのなんでもいいじゃないですか」
「だって、俺、後輩ちゃんのこと何も知らないよ?」
言った瞬間、彼女のふたつの瞳が、きらりと光った気がした。
これを言ってはいけなかったような、彼女は俺がこの台詞を吐くのを待っていたような、そんな感触がする。
「だって、せんぱい、いつも本読んでるじゃないですか」
同じような文体で返された。それだけか?
「そりゃ、暇じゃね? 電車の中」
「なんで本なんですか? スマホでもいいじゃないですか」
スマホ? ないない。
「スマホだと、どうしても自分の知ってる範囲の情報しか回ってこないからな。俺は、自分が『知らない』ことを知る瞬間が好きで、それをするのは読書が一番なんだよ」
「へぇ……」
たかだか1年しか長く生きていないはずなのに、「先輩」という肩書がつくと、自分の言ったことがなんだか素晴らしいことのように聞こえてくる、のかもしれない。
少なくとも、目の前の彼女は、俺の発した名言に感服しているように見えた。
「わたし、電車の中でいつも暇してるんですよ」
「だったら本読めばいいじゃん」
彼女は、はー、と溜め息をついた。
「酔うんですよ」
「本に酔えるなら幸せでは?」
「ちーがーいーまーす! 文章じゃなくて乗り物に酔うんです! 当たり前じゃないですか」
俺はめったに酔わない体質だから、電車だろうが船だろうが読書できる。親の遺伝子に感謝!
「せんぱいが、本当にわたしに感謝しているなら、登校中のわたしの話し相手になってください!」
「いやだって、俺、何も知ら――」
また、後輩ちゃんの眼が光る。
「知らないんだから、お話しましょう。せんぱい、知らないことを知るのが好きだから、本を読むんですよね?」
やられた。
完璧にやられた。
「わたしも、せんぱいのことが知りたいです。教えてくれますか?」
うっわ。悔しい。
「はい……」
「はい。よく言えました。敗北をすぐに認めるのはいいせんぱいです」
「後輩ちゃんに負けたわけじゃないから。自分の発言に負けただけだから」
「それどっちでもいっしょじゃないですか?」
「いいの……」
さらば、俺の平穏な通学時間……
* * *
よし。チェックメイト。
これで言い逃れはできませんよ? わたしといっしょに、退屈しない通学時間を過ごしてもらうんですから。
「それじゃあ、せんぱい。これから毎日、よろしくおねがいしますね♪」
おまけ。ウインクもしてあげます。
これでも、見た目にはちょっとばかり自信があるんですから。
「はい……」
後輩にやり込められたのがよっぽど悔しいようで、さっきからどうも返事に覇気がないです。
これは、今がチャンスかもしれません。
「せんぱい。わたしはせんぱいのことが知りたいです。せんぱいも、わたしについて未知のことを知りたいはずです。なので、約束をしましょう」
「約束?」
「はい。約束です。お互い、1日1問だけ、質問をできることにしましょう。その質問には、ぜったい、正直に答えなければいけません」
「へぇ」
やっぱりせんぱいは気が抜けていて、生返事しかしてきません。
このまま、押し切ってしまいましょう。こんなチャンス、きっともうめぐってこないと思いますし。
「はい。ゆびきりげんまんしましょう」
「え、ちょっとまってなんの約束あんまり聞いてなかったうわなんか嫌な予感する」
ゆーびきーりげんまん。うーそついたらはーりせんぼんのーます。ゆびきった。
ここに契約は成りました。異論反論は認めません。
* * *
「それで、せんぱい。せんぱいのお名前は、なんて言うんですか?」
どうせ「せんぱい」以外の呼び方をする気はないんですけれど、一応の礼儀として、最初の質問はこれにします。
「おま、そんなことも知らないで絡んできてたのかよ……」
「だってせんぱいもわたしの名前知らないでしょ?」
「まあ、うん」
「4月からいっしょの電車に乗ってるのに、ひどくないですか」
「悪かった、悪かったよ」
「で?」
お名前は、と促します。
「ああ。俺は、
「へー。なかなかおめでたいお名前ですね」
「褒めてるんだろうけど言い方がなんか煽ってるみたい! むかつく!」
「ああ、わたしは
「ああ……」
さて。今日のところはこんなものでしょうか。
わたしはせんぱいに丁寧なお辞儀をして、家の方に歩き始めました。
「せんぱい、ジュースごちそうさまでした。また明日、です!」
明日の朝が、とっても楽しみです。
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