第27日「せんぱいは、これからどうしますか?」
* * *
朝。
いつものように駅へ行くと、ホームに人が溢れていました。いつもの倍、いや、3倍くらいはいるでしょうか。
「先ほど発生したお客様トラブルの影響で、現在上下線ともに遅れが発生しております。ご利用のお客様にはご迷惑をおかけしております。ただいま振替輸送を行っていますので、そちらもご利用ください」
人をかきわけかきわけ、いつものところにたどり着きます。せんぱいは、いつも通りに、立っていました。今日は珍しく、スマホをいじっています。
「お、来たか。おはよう」
「おはようございます」
何気に、せんぱいから話しかけてくるのって、レアじゃないでしょうか。はじめて?
「まあ、見ての通りだ」
「お客様トラブルって、なんでしょうか」
せんぱいが、スマホの画面をこちらに向けて軽く振りました。
「さあ? 情報はあんまり出てないけど。案外、痴漢冤罪とかだったりしてな」
「なんで真っ先に冤罪なんですか」
「いや、俺男だし」
そうでした。
ところで、こんな会話をしていて、だいじょうぶなのでしょうか。
わたしたちは普段、始業の30分前には学校に到着するような電車に乗っているのですけれど、遅れが発生しているとなると、遅刻してしまうかもしれません。みんなが使う方の路線だったら、先生も配慮してくれるでしょうが……
この電車は割と優秀で、わたしが乗り始めてからは、目立った遅延を引き起こしたことはありませんでした。どれくらいでダイヤの乱れが解消されるのか、経験の少ないわたしにはわかりません。
ここは、せんぱいに聞いてしまいましょう。
「せんぱい。さっそくですが、『今日の一問』です」
電車に乗る前に聞くのは、珍しいですね。
「せんぱいは、これからどうしますか?」
「どうって……どうやって学校に行くかってことか」
「はい」
# # #
電車が来る前に(もっとも、遅れのない普段ならとっくに乗り込んでいる頃だが)、質問されるなんて、珍しいこともあるもんだ。
そして、質問は「これからどうするか」とな。
気になったことがあるので、聞いてみる。
「なあ、先にちょっと聞いていいか? ちょっとっつっても『今日の一問』だけど」
「はい?」
「俺が答えて、後輩ちゃんはどうする気だ?」
「せんぱいに、ついていこうと思います」
「一生?」
自然に口から飛び出たけれど、俺、なんでそんな茶化しを入れたし。
「一日ですよ。やだ」
深くは追求されないようで、助かった。最も、追求されたら俺もあっちも共倒れなわけだけれど。
「こういうのって各自の判断なんじゃないか」
「わたしには判断の材料がないんですよ。遅延発生なんて、はじめてですし」
「手に持ってるその板は飾りか?」
この言葉を聞いた後輩ちゃんが、笑った。
「だって、めんどくさいじゃないですか。せんぱい、さっきからすごい勢いで調べてますし」
その情報に従った方が楽です、と彼女は言った。確かに、重複する情報をふたりで調べたところで、仕方がない。
「お前なあ……」
「合理的でしょう?」
「まあ、確かに」
「それで、せんぱい。どうするんです?」
あらかた考えはまとまっていたのだけれど、最終確認として、口に出しながらもう一度思考を巡らせる。
「Twitterを見る限り、そのトラブルとやらが発生したのは45分くらい前。ダイヤが乱れてるって言ってもまあそれなりの乱れだろう。振替輸送を使うにしても、だいぶ遠回りになるしなあ」
正三角形とまでは言わないけれど、二等辺三角形の1辺と2辺の違いくらいにはなる。俺たちが使う「浜急線」には、並走している路線はないのだ。
「それだったら、そろそろ乱れも収まるだろうし、普通に来た電車に乗るってのがいいかなあ、と思う。最悪は遅延証出せばいいし」
「じゃあ、わたしもそうします」
「即決だな」
「あら。わたしはなんだかんだ、せんぱいのこと、信用してるんですよ?」
「……そりゃ、どーも」
* * *
それから5分くらい立って、電車がやってきました。
満員です。人でぎゅうぎゅうです。すし詰めです。
ドアが開いて、少しだけ人が降りて、それから、ホームで待っていた人たちが一斉に電車に乗り込んでいきます。
考えてみれば、わたしは、「満員電車」というものに乗ったことが、ほとんどありません。閉園時間まで粘ったディズニーランドの帰りくらいでしょうか。あの時は、家族連れも多かったですけれど、こっちの電車は9割がサラリーマンです。真っ黒です。
「ほら、乗るぞ」
せんぱいの声に、ついていきます。
ドアのところにまで人がたくさんいて、もうわたしが入るスペースなんてないように見えます。
せんぱいは、僅かな隙間を見定めると、すいませんとつぶやきながら、背中向きに電車に乗り込みました。ぱっと見渡しても、今度こそ、わたしが入る場所はないように思えました。
「どうした?」
ぼうっと立ち止まってしまったわたしを見て、せんぱいが不思議そうにしています。ホームには発車ベルが鳴り響き、このままでは置いて行かれてしまいそうです。
迷った、挙句。
わたしは、視界の中にある手近な人――つまりせんぱい――のところに、突っ込んでいきました。
# # #
後輩ちゃんの、様子がおかしい。
遅延が発生したら、これくらいは混むんだけどなあ。来た電車を見てぎょっとして、仕方ないから声をかけてやったら今度はぼうっとして、このままだと発車しちゃいそうだからもう一度声をかけたら、あろうことか。
俺の腹に突進してきた。胸かもしれない。
その違いは、重要じゃないから、この際無視するとして。
後輩ちゃんが俺にぶつかった瞬間にドアが閉まったから、そのはずみで、俺は胸の前で彼女を抱き込むような形になってしまっている。
「おい、大丈夫か?」
「あんまり、だいじょうぶじゃないかもしれません」
満員電車、あまり乗ったことないんです。と、小さな声で付け加えたかと思うと、無理やりに笑顔を作ってこう言った。
「でも、せんぱいが守ってくれるんでしょう? わたし、せんぱいの腕の中ですし」
自分に余裕がない、そんなときでも、お前は俺を、小悪魔みたいにからかってくるんだな。
そんな小悪魔――子悪魔?――の、細くて、華奢で、でもなぜか柔らかくて暖かい身体が、この電車の誰にも触れられることがないように、俺はがんばった。
登校経路の、半分くらいのターミナル駅で、人がたくさん降りるまで。
# # #
「ありがとう、ございました」
やっと
「なあ、『今日の一問』で聞いていいか?」
「どうぞ」
「満員電車に、トラウマでもあるのか?」
「特にないですけど?」
「じゃあ、どうして」
「せんぱいを、からかってみたかったから……というのは嘘で」
あれが演技だったら、お前は大した役者だよ。
「わたし、『男の人』が、好きじゃないんです。『男の子』はだいじょうぶなんですけど」
「はあ?」
「つまりですね。電車に詰め込まれてるようなサラリーマンのおじさんたちって、年が離れすぎてて、何考えてるかわからないじゃないですか。痴漢のニュースとか、たまにあるじゃないですか」
俺としては、痴漢というのは何がしたいのか、社会的リスクを背負ってまでやりたいことなのか、よくわからないけどな。
「つまり、わたしに危害を加えるかもしれない、思考が読めない『動物』と一緒なんですよ、たぶん」
「言ってることはわかるけど……」
なかなかひどいこと言うな、こいつ。
……あれ?
「じゃあ、俺は?」
「せんぱいは……せんぱいですよ。『男の人』でも『男の子』でもありません」
「なんだその、褒められてるんだかけなされてるんだかわからない言い方は」
「褒めてるんですよ。せんぱい、面白いですから」
「はあ……ありがとう」
電車が、動き出す。
* * *
「せんぱいを信じたわたしがバカでした」
「お前、バカ言うなって! 一番悪いのは鉄道会社……じゃない。トラブルを起こしたお客様だろうが!」
「でも、せんぱいが判断したんだからきっと遅れないと思ってました」
「遅れないように走ってるんだろ!」
結局、電車は、始業(うちの高校では9時です)5分前に、駅に着きました。
駅から学校までは、だいたい、徒歩7分です。
つまり――遅れたくなければ、走るしかない。
そういうわけで、ふたりで、走っています。学校の裏門へと続く道を、ひたすらに。
完全に遅れるのなら、遅延証明書をもらって、歩いていくのですけれど。
なんで、こうもまた、中途半端なんでしょう。
学校が、見えてきました。2分前です。急げば間に合うかもしれません。
今日ばかりは、ここで知らないふりをしている余裕なんてありません。せんぱいと並んだまま、裏門を駆け抜けます。疲れてきました。
「せんぱい!」
横を走るせんぱいに、怒鳴ってやります。
「明日か明後日、甘いもの奢ってください」
「太るぞ?」
「女子に太るって言っちゃだめです」
「はあ」
「今走った分のカロリーだけ、わたしにスイーツを食べさせてください」
「ちゃんと計算しとけよ」
「計算って……」
「走った分のカロリー。きっと掛け算で求まるだろ」
言い合っていると、わたし達は下足箱にたどり着いていました。
わたし達だけでなく、遅刻すれすれの学生達が、靴を履き替えては駆け抜けていきます。
今日のおはなしは、ここまでですね。
「それじゃ、また明日」
「……はい!」
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