第50日「なんで、自転車に乗ろうと思った?」

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「おはようございまーす」


 11月5日、日曜日。冷たい風が吹き抜けていくものの、気持ちのよい秋晴れだ。手が冷えるので、両手をポケットに突っ込んでいる。


「なんで朝から……」


「何時間かかるかわからないじゃないですか」


 おやまあ。珍しく、後ろ向きな発言である。

 後輩ちゃんのことだから、一瞬で乗りこなしてみせますよ! みたいなこと言うと思ったのに。


 そう。いつか(ほぼ一月くらい前の気がする)、後輩ちゃんが自転車に乗れないことが判明したときに、なぜか自転車を乗る練習に付き合う、みたいな話が出ていたのだ。

 それ以来、休日で晴れる日を見計らっていたのだけれど、やっと晴れてくれた。台風さんは帰って。いやむしろ生まれないで。過去、現在、未来の全ての台風を滅ぼし……たら日本が水不足になるんだっけか。とにかく、来るなら平日に来てくれ、頼むから。


 そういうわけで、近所の公園に、自転車をころころ転がして集まったわけだ。俺が自転車押してくる必要はあるのかな、と思ったけれど、お手本見たいですと言われれば、従うほかない。

 彼女は、ヘルメットをかぶって、軍手までして、完全防備である(もちろん生足など出ているはずがない。ジーパンだ)。そんな無骨な格好でもなんだかんだかわいいのが憎めない。


「お兄ちゃんの借りてきたんですよ。最近使ってないですから」


 確か、地方の大学に通ってるんだったか。年末年始には帰ってきたりするのかな。

 へへん、としている彼女の脇のママチャリを眺める。平均的なママチャリだ。何段階かの変速機能がついている。

 タイヤがおかしいように見えた。押してみる。

 ぺこっ。

 面白いように、へこんだ。


「よし。まず、空気入れような?」


 こんなべこべこの自転車で練習したら、走りにくいだろうが。


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 俺が家までひとっ走りして、空気入れを取ってきた。

 ポンプをえっちらおっちら押しながら、聞く。


「ところで、そんなヘルメットで大丈夫なのか?」


 自転車用のというよりは、工事現場用のものに近い気がする。あるいは、防災用。

 クッションが無くて、幅広のひもがぷらんぷらんついている状態といえばいいだろうか。

 やっすいやつやん。


「だいじょうぶですよ」


「なんだその自信」


「今日のジーンズ、分厚いので。触ってみます?」


 太もものあたりの生地を持ち上げてアピールしてくる。


「……結構です」


「それに。もし転びそうになっても、せんぱいが守ってくれるんでしょう?」


 こちらに笑顔を向けて、そんなことを言われてしまっては、もう何も言い返せなかった。


 * * *


 せんぱいが空気を入れてくれて、いよいよ、わたしが、自転車に乗る練習のはじまりです。


 小さい頃、乗ろうと練習するタイミングをなぜか逃してしまい、必要にせまられることもなく、そのままずるずると、高校生になっても乗れないままです。

 このままでは、せんぱいに事あるごとにいじられそうだから――そういいわけをして、この約束をしてもらいましたけれど、もしかしたら、この練習会そのものがわたしを攻撃するネタになる可能性の方を考えておかなければならなかったかもしれません。


 やっぱり、こわいんですよ。せんぱいの言葉を借りるなら、「未知」のことだから。

 ふつうに乗っている人はたくさんいるのに、小さい頃に転びながら練習した、みたいな話もけっこうありますし。


「痛いのは、いやですよ?」


 ちょっとしたお願いをすると、せんぱいはなぜか真顔で。


「その言い方やめて、誤解する」


 はい?

 ……何秒かして、意味がわかりました。


「セクハラやめてください」


「お前が言ったことだろうが!」


 なぜか緊張がとれたのがすごくくやしいです。


 # # #


「それじゃあ、まずは、っと」


 昨日の夜、ちょっと調べたホームページの内容を思い出して、自転車にまたがった。

 そのまま、地面を蹴って、足を伸ばしたままペダルに乗せず、すーっと進んだ。徐々に速度が落ちていき、右足が地面についたので進行方向をぐるっと変えて、これをもう一度。後輩ちゃんの隣まで戻る。


「こんな感じでやってみて」


「は?」


 あ、言語化が足りなかった。

 やるべきこと、注意するべきこと、この練習の目標、到達点を説明する。

 俺の説明が終わって、ひとつ頷いた後輩ちゃんが自転車をまたぐ。


 彼女は、涙が浮かびそうなほど目一杯つま先立ちになって、尻をサドルに乗せようとした。

 当然、そんなことを自転車初心者がやれば、バランスを崩すわけで。

 まあ、思いっきり転びそうになった。隣にいる俺が、何とか受け止められたけれど。


「サドルが、高すぎるな」


 柔らかい体を抱えたまま、心当たりを口にした。


「それ先に言ってくださいよ……」


 顔を赤くした後輩ちゃんが、まだ練習を始めてすらいないのに、疲れたように言った。


 * * *


 さっそく、せんぱいに受け止められてしまいました。喜ぶやら、悲しいやら、びみょうなところです。


 サドルを低くして、改めて挑戦です。

 ハンドルを持って、指はブレーキの方にかけて、準備OKです。足で、地面をけりました。ちょん、と。あまり強くけるのはこわいです。

 ちょっとだけ、30cmくらいだけ、前に進んで、また地面に足がつきます。


「いいじゃん」


 せんぱいの声に背中を押されて、もういちど。

 今度は、50cmくらい進めました。

 あれ? 意外と、かんたんじゃないですか。


 味をしめたわたしは、もっと強く地面をけりました。目標は、3mくらい。

 足を開きっぱなしでは、どうも集中できません。まんなかにそろえます。

 すると、ふくらはぎに、後ろから衝撃が来ました。


「いたっ」


 口からことばがこぼれて、足をまた広げて、運動靴の底で公園の砂をざざざーとやります。止まってくれました。

 それにしても、今のは?

 感触があった右足の方を見てみると、右のペダルがその位置にありました。


「あっはっはっ!」


「は?」


 せんぱいが、爆笑しています。人の不幸がそんなにおもしろいですか。ついつい、冷たい声が出てしまいました。


「ごめんごめん。ペダル、勝手に回るんだよ。うん。最初びっくりするよな、確かに」


「痛いじゃないですか」


「転んでないからいいだろ? ちなみにああいう緊急事態みたいな時はブレーキを使うともっと早く止まれるぞ」


「あ、なるほど……」


 完全に、存在を忘れていました。ブレーキってそのためにあるんですもんね。


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 その後、ハンドルの操作についてもざっと教えて(右と左に傾けるだけだが)、サドルの高さを戻して。

 ペダルを漕げば進むよ、と言ったら、後輩ちゃんはあっという間に自転車に乗れるようになってしまった。まだまだ危なっかしくはあるが、一応転ぶ前に足をつくことはできそうだ。


「早かったな」


「わたしの才能ですね!」


「あのさ、そこはお世辞でもいいから俺の教え方って言っとくとこだろ……」


「あ、じゃあせんぱいの教え方です」


「棒読みすぎ……」


 軽口を叩きながら、公園のベンチに座って休憩する。

 そのへんの自販機で、ホットの飲み物も買った。木枯らしに晒された体が、少しだけ温まる。


「にしてもさ、『今日の一問』だけど」


「今日はせんぱいからなんですね」


「なんで、自転車に乗ろうと思った? 小さい頃から理由がなかったなら、今もないはずじゃん」


「おう、そこ聞いちゃいます?」


「うん、聞く」


 後輩ちゃんが、少しだけもじもじしているように見えた。


 * * *


「せんぱいの家に行くのが楽になると思ったので」


 3週間前にはこんなこと思っていなかったけれど、今ならこれが一番の理由です。歩くと遠いんですよ。駅の反対側ですし。

 ……ちょっぴり、恥ずかしいですが。


「そうか」


 せんぱいが、そっぱを向きます。


「ありがとな」


「こちらこそ、練習つきあっていただいて、ありがとうございました」


「道路で転ぶなよ? アスファルトは痛いぞ?」


「わたしからの『今日の一問』ですけど」


 せんぱいの、妙に実感のこもったような言葉に、ついつい聞いてしまいました。


「せんぱいって、自転車で転んだことあるんですか?」


「そりゃあ、な」


「詳しく教えてください」


「え」


 せんぱいが、露骨に嫌そうな顔をしました。これは、何かありますね。


「ほら。『今日の一問』なんですから」


「わかったよ……笑うなよ?」


「笑ってあげます」


「おい。まあいいや。あのな。中学生の時な。俺毎日自転車乗って・・・るからって調子乗って・・・な」


 ここですね。


「あはは」


「おいどうして笑った」


「だって、せんぱいがつまらないギャグ言うから」


「え?」


 理解が追いついたようです。


「ああ。そこじゃねえよ。ね。両手ね、離して乗ったことがあるんだよね。あれも秋が深まってきた頃だったなあ」


「両手離しですか」


「ちなみに片手離しはけっこう簡単」


「はい」


 # # #


「で、まあすっ転んだわけだ。痛かったなあ」


 肉が削れるとかそういう感覚ではないんだけれど(長ズボンだった)、普通に痛かった。

 傷口がじんじんした。


「へー。せんぱいも、そういうことするんですね」


 なんか意外です。そう言う後輩ちゃんをよそに、俺はコーンポタージュを飲み干した。


「俺だって、男の子なんだよ」


 缶の中に向けて、隣には聞こえないように呟いた。

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