第34日「せんぱいって、コンタクトにはしないんですか?」
* * *
金曜日です。
しばらくやんでいた雨もまた降るようになって、空が暗いです。朝なのに。
「おはようございます」
今日も、せんぱいがやってきました。
「ああ、おはよう」
そういえば、せんぱいがあいさつをはじめて返してくれてから、もう、一月は経ったでしょうか。
はたして、あれからどれだけ、わたしたちの距離は縮まったのでしょうね。
電車に乗り込んでいつもの位置に行くと、せんぱいがメガネを外して、紺色のセーターのすそでごしごしと拭き始めました。
「雨は嫌いだ」
「本が濡れるから、でしたっけ」
「メガネが濡れるのも嫌いだ」
なるほど。メガネのレンズに雨粒がついてしまったんですね。
「ところで、せんぱい。『今日の一問』です」
「何だよ?」
「せんぱいって、コンタクトにはしないんですか?」
* * *
コンタクト。コンタクトレンズ。
目の中、角膜の上に載せて、視力を矯正する医療器具である。
俺はずっとメガネユーザーだけれど、コンタクトレンズという未知を体験したいことだってあった。だから、うちには、1dayのコンタクトが1箱眠っている。
そう。眠っている。死蔵されている。
「しないな」
「なんでですか? 雨の日とかべんりじゃないですか」
後輩ちゃんの言い方はさておき。
なぜ、俺がコンタクトを使わないのか。理由は単純だ。
あーでもこれ、言いたくねえ……絶対バカにされるやつだ……でもなあ、「一問」だしなあ。答えないわけにはいかないんでしょうね。はい。
「入れるの苦手なんだよ」
「は?」
「コンタクト。目に入れるの」
「なんだ。てっきり作ったことないのかと思ってました。せんぱいですし」
「お前の中で俺はどういうキャラなんだよ……」
最近、全体的に扱いが雑な気がするんだけど。
「入れられないなんてこと、ほんとにあります?」
質問のタイミング、逃しちゃいそうだな。
今のうちに聞いておこうか。
「なあ、その前に『今日の一問』していい?」
「はい」
「後輩ちゃんこそ、コンタクトなの?」
「はい」
「カラコンとかつけたりするの?」
コスプレイヤーの写真とかがたまにTwitterに流れてくると、ほんとすげえなって思う。
最近のアニメキャラは眼の色で差別化されている感じもあるし、瞳は大事だ。
「いや、つけたことないです」
「ほう」
「わたし、そんなことしなくてもかわいいので」
あっかんべーと右目を広げる姿が、確かに、かわいい。
「ちょっと、なんか言ってくださいよ」
「はいはいかわいいかわいい」
「なんか、ひさしぶりですね、それ」
そういえば、しばらく言っていなかったような気がする。
「ということで、わたしは毎日コンタクトなんですよ」
「俺は毎日メガネだ」
コンタクトで外出するということは、寝る直前とかには、家ではメガネをかけているということになる。近視なわけだし。頭の中で、目の前の彼女の顔に、メガネを重ねてみる。
「おーい? せんぱい?」
どんなフレームのやつをかけてるんだろう。
太ぶち? それとも細いやつ? 色は?
なかなか、しっくりするものが思い浮かばない。
うんうん、心の中で唸っていると。
視界に、2本の指が飛び込んできた。レンズに当たって、チョキの形で目潰しに来た後輩ちゃんの指が止まる。
「ちょ?」
メガネに、指紋がべったりとついた。仕方ねえ。拭こう。
「せんぱい、いきなりわたしを見つめちゃって、どうしたんですか? まったく」
「え」
うっそー。俺そんなに見つめてたの。
「わたしのメガネ姿の想像でもしちゃいました?」
図星だよ。的中。おめでとう。
と、そんなことが言えるわけもなく。
「さあ、どうだか」
「ふーん。もし見たいなら、わたしの家に泊まりにきてくださいね」
彼氏でもない男にそんなこと言うんじゃありません。
「まあ、いいです。話を戻しましょう。コンタクト入らないなんてこと、あります?」
「だってあれ大きいじゃん。まっすぐだと入らないじゃん。片っぽぐーってしてから、もう片っぽ入れないといけないじゃん」
というか、待って。
メガネの汚れが、取れない。脂の汚れって、拭いても拭いても伸びちゃうから厄介なんだよ。
「そうですけど?」
「それが難しいんじゃねえか!」
すぐに落ちるしさ。落ちたらなんか生理食塩水みたいなやつで洗わないといけないしさ。
何より怖いんだよ。何が悲しくて眼球に指を突っ込まなきゃいけないんだ。
「目を大きく開かないのが悪いんですよ、きっと」
「昼間ならいいかもしれないけどさあ。朝なんてそもそも目を開けること自体が辛いだろ」
「あ、なるほど。そういうことですね。せんぱい、朝が苦手ですもんね」
ダメだ。指紋取れねえ。
俺は、ポケットからハンカチを取り出した。
* * *
朝が苦手で目が開かないから、コンタクトレンズも入れられない、と。
なんか、かわいいですね。
「苦手なら、目を無理やりこじ開ける練習をすればいいんですよ」
「は?」
せんぱいは、まだメガネを拭いています。
つまり、メガネを外しています。
そう。さすがになにも考えずに、レンズに指紋をべったりつけるほど、わたしはバカじゃありません。
わたしはせんぱいに詰め寄ると、両手を使って、せんぱいの右目をぐぐっと押し開きました。
「ほら」
「ちょ、何する」
「だから、目を開ける練習ですって」
「自分でできるから、やめろって」
# # #
「あんまり暴れないでください、危ないですよ」
ぐぐーっといきなり近づいてきた後輩ちゃんが、俺を脅す。
確かに、女子らしく長く伸ばされた爪が微妙にまぶたの皮膚に食い込んでいて、地味に痛い。というか。怖い。
「なんでお前が押し広げてるんだよ」
「せんぱいひとりじゃ、むりなんでしょう?」
「これでも無理だわ」
「意外といけるかもしれませんよ。今度ためしてみましょうよ」
「嫌だよ」
それより、メガネ、かけ直していいかな?
「あの、離してくれませんかね」
「左目もやっときましょう」
「えっ」
ぐぐーっと目が開かれて、後輩ちゃんの顔が近くて、爪が食い込んだ。
「はい」
メガネをかけて、やっと、視界が戻る。後輩ちゃんの顔が、はっきり見えるようになった。
「なんだったんだ、これ」
「わたしにもよくわかりません」
へへーと微笑んで、彼女は囁く。
「こんなのも、別に、いいじゃないですか」
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