第86話

 最初は、妙な噂から始まったんだ。

 彼女が『カンニングをしている』だの、『パパ活をしている』だの、こんな言い方をしてはなんだが、酷く幼稚でありきたりな噂が流されていた。


 無論、根も葉もない内容であったし、周囲にはそんなものを信じるような愚かな人間は少なくとも目に見える範囲にはいなかったのだが、けれど噂は面白おかしく拡がっていった。聞く側の人間からしたら、それが真実かどうかなどきっとどうでも良いのだろう。


 これまでそういった悪意と好奇の衆目に晒されることに慣れていない女の子にとって、それは強烈なストレスとなっていた。

 まあそんなものに慣れている人間の方が珍しいとは思うが、ともかく日に日に表情が暗くなっていく彼女のために、俺は噂の出処を突き止め、根元を断つために動くことにしたんだ。


 けど、発信源がどうやら他クラスらしいというところで俺の捜査は停滞する。いろいろと尾ひれがついて広まっているようでなかなかその先を特定することはできていなかった。

 こんな陰湿な悪意の伝播方法は俺には見当がつかなかったのだが、それでも俺は捜査活動を止めることはなかった。

 そんなことをする人間の気持ちも理解はできなかったし、そしてなにより大切な彼女を傷つけられて頭に血が上っていたんだと思う。躍起になって火消しに走っていた。


 この時点の俺がわかっていたのはなぜいじめが発生したかということだけだった。

 俺と彼女が付き合い始めたこと。

 タイミング的にはそれしか考えられなかった。


 それに気がついた彼女の方からも、少し距離を置いた方がいいかもとやんわり提案があったが、俺はそれを断る。今の状態の彼女を一人になんてできなかったし、なによりこの悪意に負けたくなんてなかった。

 結局俺は自分のことしか見えていなかったんだろうな。自分たちを攻撃する誰かを突き止めることだけしか考えていなかったんだ。


 だから、彼女への攻撃がエスカレートしていることに気づくのが遅くなってしまった。

 いや、遅くなってしまったなんて表現は正しくないな。


 俺は何一つ間に合わなかったんだ。

 決定的に。


 彼女は俺に対して口を噤んだままであったが、聞くところによると人の目の届かないところ――特に俺の目が届かない女子更衣室や女子トイレ、放課後の教室でそれは行われていたらしい。

 どんなことが行われていたのかは……ちょっと俺の口からは言えそうにない。


 心優しい彼女は、俺がそのことを知ったら一緒になって傷つくとわかっていたのだろう。俺の前では常に笑顔を絶やすことはなかった。

 俺が彼女から離れないと宣言した時点で、これから先は自分一人で耐え抜くと心に決めていたのかもしれない。


 だから、俺が全てを知ったのは、いじめの犯人を突き止めたとき。

 すなわちすべてがになってからだった。


『ごめんね、悠馬くん。助けてもらってあげることができなくて』


 彼女が俺に最後に送った言葉が脳の奥底で反響を続けている。

 最後に見た彼女の表情が目に焼き付いて、今でも脳裏から離れないんだ。


 限界に達した彼女は、学校の屋上から飛び降りた。



 犯人は、ギャルの友人たちだった。

 他クラスの、俺の知らない女子だった。


『こんな思いをするくらいなら――いっそのこと出会わなければよかった』


 先に仲良くなったにもかかわらず結果的には俺との仲を彼女に割り込まれたような形になり、ギャルは思わず愚痴を零したのだという。友人たちはそれを聞いて義憤に駆られたらしい。

 スクールカーストトップに君臨するグループとしてのプライドのようなものだろうか。

 相手がクラスでも地味な女の子であったことも災いしたのだろう。もしかしたら彼女たちは自分が蔑ろにされたのと同じ感情を抱いたのかもしれない。

 俺はそんなものを友情だなんて、決して呼びたくはないけど。


 幸い――だなんて呼べるものでは決してないけれど、彼女を虐めていた証拠が残っており、最終的にその友人たちは退学になった。


 でも、俺にとってはそんなことは最早どうでもよかった。

 犯人が見つかったところで、どう処罰されたところで、手元には何も帰ってこないのだから。


『ごめんっ……ごめんなさいっ!』


 そう言って、ギャルは泣いていたよ。

 彼女としてもその友人からは何も知らされていなかったらしい。愚痴をこぼした時には、まさかこんなことになるとは夢想だにしていなかったという。


 俺はギャルの涙を目にして、震える声を耳にして、全く別の感情に駆られていた。


 ――自分の友人が、同じく自分の友人に危害を加えていて、それに気が付かないなんてことがあるのだろうか?

 彼女の件は、当然ながら遥か前から耳に届いていたはずだ。にも関わらず、ギャルはアクションを起こすことはなかった。そこに、意思は全くなかったと言えるのだろうか?


 それはあくまで可能性の話であり、証拠は何もない。真相は闇の中だ。疑わしきは罰せずがこの世の条理なのだろうと思う。

 それでも、俺は不思議と確信していた。それは妄想なんかではないと。


 もし。

 彼女の方もそこまで思い至っていたとしたら。

 友人だと思っていた人間に裏切られたことを知ったのだとしたら。


 そこまで考えて、俺は瞳を閉じた。


 醜い人間関係も。

 己の無力さも。


 もうなにも、見たくなかった。

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