第76話

 まるで日差しを取り込むかの如く開かれた胸元。

 

 見えそうで見えない、けれど見まいとしても自然に目線が引き寄せられていく。

 薄手の生地の向こう側にある仄暗く、小さな空間はさながらブラックホールのようだった。


「どうしました? 見たくないのですか?」


 上郡は立ち止まり、挑発的に目を細める。


 なんだこいつ……。

 この女マジで何を考えてるんだ……。

 何が目的なんだよ、この問答。


 読めない……!

 上郡の思考が読めない!


「……見たいって言ったらどうなるんだ?」

「ふふ、せんぱいにハッピーなことが起きるかもしれませんね。まさしく眼福と言うやつです」

「……それをすることでお前にどんなメリットがあるんだよ」

「別に、ただのサービスです。特に深い考えも、浅い考えもないので、変に疑らなくていいですよ」

「考えなしってのもそれはそれでおっかなびっくりって感じではあるんだが……ちなみに見なくていいって言ったらどうなるんだ?」

「まあ、その場合は未来永劫失われるでしょうね」

「ああ、まあそうだよな」

「せんぱいの視力が」

「なんでフィジカル的に対処するんだよ!」

「失礼なことを言う人には当然の仕打ちです」

「裁判長! 罪に対する罰が見合っておりません!」


 上郡は相変わらず起伏のない口調で淡々と告げる。

 承太郎かお前は。面白い倒置法を使うんじゃない。


 というか選択肢がねえよ。

 

「……よく考えたら、ここで俺がどう答えようと、向こうに戻ってまた海に入るってなったら、自然と拝めるんじゃないのか?」

「残念ながら、見なくていいと回答された場合にはこのTシャツのまま海に入ることになるでしょう」


 なるほど、やるなら徹底的にということか。


 相変わらず上郡の考えはイマイチ読めないけれど、というか普通に揶揄われているだけなのだろうけれど、俺は一呼吸置いてみる。


 上郡のサイズ感は外から見ている分には測りかねる。大きめのTシャツがうまく彼女の身体の凹凸をカモフラージュしていた。

 そこまで大きな膨らみではなさそうだが、しかしそれは上郡が小柄なことに起因してそう見えているだけかもしれない。少なくとも全くの無乳ということはなさそうだった。


 うん、まあ隠しても仕方ないから言うけれど、というか隠せていないような気もするけれど、はい、普通に見たいです。薄い生地の向こう側が気になって仕方ないのです。


 水着姿の女性なんてビーチに沢山いるのに、なぜだか上郡のTシャツから目を離せなかった。

 触ってはいけないとされるボタンに触りたくなるように、入ることを禁じられている扉を開きたくなるように、隠されると暴きたくなるというのはどうやら人間の真理らしい。


「まあ、その、なんだ。見たくないと言えば嘘になる、かな」

「見たいか見たくないか、ハッキリお答えください」


 俺の精一杯の強がりを一撃粉砕する上郡。


「……見たい、です」

「では、リピートアフターミー。『どうかこの卑しく、いやらしい童貞駄犬に天の施しをお恵みください』」

「ぐっ……」


 それはテンプレに近いものではあったが、しかしビーチにおいて、後輩に対して差し出す言葉としては最上級に屈辱的なものであった。

 自分の胸を天の施しと表現するのは些か不遜な気がしないでもないが、それはこの際置いておこう。


 くそぅ、こんなことならビーチバレーなんかせず上郡の水着姿を拝んでおけばよかった……!


「……ど、どうかこの卑しく、いやらしい童貞駄犬に天の施しを、お、お恵みください」


 俺は頭を垂れ、上郡に言われた通りの口上を述べる。


 処女の胸を見たいがためにビーチで頭を下げる情けない童貞の姿がそこにはあった。


 地獄かな?

 客観視したら死にたくなりそうなので俺は必死に自分の姿を見て見ぬ振りする。


「あはは、恥ずかしくないんですか、せんぱい。可哀想に、プライドをお母さんのお腹の中に忘れてきてしまったようですね」


 上郡は俺に現実を突きつけて笑ってるときが1番楽しそうだ。

 なんなら、こんなに楽しそうな上郡を見るのは初めてかもしれない。デートで美味い飯を食べた時にも無表情だったくせに。


「そうそう、プライドと言えば1648年にイングランドで発生したプライドの追放が有名ですよね。清教徒革命の最中に独立派のプライド大佐が引き起こしたクーデターですけど、わたし初めて聞いた時にはてっきりプライドさんが追放されたのかと思ってしまいました。なんとなくカノッサの屈辱が頭を過ったんですけど、よく考えればカノッサも人名じゃないから、世界史ってなんだかわかりづらいです。その点、日本史は大塩平八郎の乱とか、桜田門外の変とか、割とわかりやすくていいなあと思うのはわたしだけでしょうか?」

「知らねえよ! そして長えよ!」


 プライドの追放も清教徒革命も何一つ聞き覚えがなく、同意を求められてもただ困るばかりであった。

 俺、日本史選択だったし。

 というかそれはただ単に、地名とか人名に馴染みがあるからそう感じるだけだと思う。


「はあ、プライドの追放も知らないとは、せんぱいの浅学非才ぶりには驚嘆の一言です。まあそんなものはさておき、そろそろ戻りましょうか」

「その言葉は他人を下げるために使うフレーズじゃない……というかちょっと待て! 胸を見せる約束はどうした!」

「はて、なんのことでしょう? わたしはハッピーなことが起きるかもと言っただけで、わたし自身の胸を見せるだなんて一言も言っておりませんが」

「とぼけるな! 誰が恥を忍んであんなセリフ言ったと思ってんだ! 約束守れこのやろう! 脱げ、Tシャツを今すぐ剥ぎ取らせろ!」

「きゃあ、襲われてます」


 美少女に脱衣を迫って追い回す童貞の姿がそこにはあった。

 やはりここは地獄かもしれなかった。


 そんなやりとりを部員に目撃され、のちの飲み会の場で死ぬほど弄られたのは、ある意味当然の報いと言えるかもしれない。

 客観視するまでもなく死にたくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る