第77話
*
ザクッ。
ザクッ。
足音が近づく。
『ハァッ、ハァッ』
俺は閑散とした田舎の細道を駆けていた。
僅か数時間前まで合宿を楽しんでいたはずなのに、なぜこうなったのだろう。
真夏特有の熱く、重たい空気がべっとりと喉元に貼り付き、浅い呼吸を繰り返せど上手く体に巡っていかない。
呼吸をするたび、届かぬ酸素を求めて肺がキリキリと痛むのを感じる。
『――ッ!』
脳に酸素が十分に行き渡っていないのか、さながら酔っ払いのように足が縺れ、俺は無様に転がる。
ジャリという嫌な感触が口腔内に拡がるが、そんな些細なことを気にしているヒマなどなかった。
『なんでッ……どうしてッ!?』
ゆらりと。
月明かりを除けば辺り唯一の光源である街灯から放たれる光が揺らめく。
すぐそこまで、『そいつ』は迫っていることを本能が告げる。
思えば、今日は一日おかしなことが多かった。
旅館の俺の部屋からいくつかの荷物がなくなったこと。
海水浴場のロッカーにしまっていたはずの俺のバッグに、見たこともないタオルが入っていたこと。
そして――四六時中感じた、粘っとした嫌な視線。
それらは全て気のせいなんかではなかった。
もっと早くに気づけていれば――こんなことにはならなかったのに。
後悔はいつだって、先に立つことはない。
『なんで――オマエがここにいるんだよッ!?』
俺の叫び声は、木々のさざめきに吸い込まれていく。
助けなど、どこにも期待できそうにもない。
『――せんぱぁい。どぉして逃げるんですかぁ?』
そいつはたった今暗闇から這い出てきたかのように、ぬるりとその姿を月下に晒す。
乱れた髪の毛、こけた頬、深い隈の痕が異様な雰囲気を醸し出す。
しかし全速力で逃げていた俺を追いかけてきたにもかかわらず、そいつの呼吸は一つとして乱れることはなかった。
『どうしてって――オマエが追いかけてくるからだろ……ッ!』
『あはははは、先輩が逃げなければ追いかけませんよぅ』
そんなことを言いながら一歩、また一歩、地べたに這いつくばる俺との距離をそいつは詰めてくる。
見知ったはずの顔だった。
いつも明るく、俺になついてくれていたあの笑顔。
けれど今のこいつの表情は、俺の記憶のフィルムのいずれとも合致しない。
乱雑に垂れ下がった前髪の向こう側に微かに見えるその瞳には生気も光も、何一つ見えない。
暗く淀んだ瞳。
『私だってこんなことはしたくなかったのに――先輩が悪いんですよ。私を裏切るから、これはお仕置きなんです』
『く、来るな……ッ!』
俺は動かない足にありったけの力を籠め、今出来る精一杯のこと、すなわち後ずさりをする。
しかし、当然のことながら俺とそいつの距離は縮まるばかり。
『大丈夫、痛いことも怖いことも、なぁんにもないのです。あのクソ女どもは切り刻んでやりましたが、先輩に
気づけばそいつの右手には、銀色に光るナイフ。
こびりついた赤い
『今度こそ、一緒になりましょうね、先輩』
抑揚のない口調、振り上げられるナイフ。
俺の記憶はそこで途絶えた――。
*
「……おお、なんつーの、これがサイコホラーってやつか」
「ああ、ま、ジャンル的にはそんなとこだな」
俺は書き上げた原稿の一部を友口に読ませる。
作成途中の原稿を見せるというのは存外恥ずかしいことではあるのだが、まったく筆が進まない友口に泣きつかれやむを得ずといったところである。
「この合宿を舞台に書いてるのか」
「ああ。なんせ、
「ストーリーはよくある雰囲気なのに、『おかしなこと』の中身だけ生々しいというか、生優しいと感じるのはそれが原因か……」
まあきっと荷物の一部がなくなったと思うのは俺の勘違いだし、見知らぬタオルは美優姉のものが紛れ込んだのだろう。
さすがに視線に気がつくほど勘は鋭くないのだけれど、それだって気にしすぎる必要はないはずだ。
心霊現象なんてのは種を明かせばつまらないものだ。そのほとんどが人為的現象で片付けられてしまうものである。
しかし、原稿を読み終えた友口は、こいつにしては珍しく苦々しい表情を浮かべている。
「……ちなみになくなった荷物ってのはなんだったんだ?」
「ん? ああ、Tシャツと下着が何着か見当たらないんだ。もともと多めに持ってきてたから足りなくなることはない、というかこれでちょうどぴったりの着数になったってんで、大して支障はないんだけどな。まあ、たぶん俺が入れ間違えたんだろ」
カバンに詰め込む前にちゃんとチェックしたはずなのだが、うーむ、まあこんなこともあるのだろう。
「……案外、マジでストーカーだったりしてな」
「ははっ、まさか」
いかにも荒唐無稽な感じだ。事実は小説よりも奇なりとは言うけれど、そんなものは偶発的に起きたハプニングをチェリーピックしているからそう見えるだけであって、大概の場合は事実なんてのは笑い話にすらならない。
だいたい、誰が俺なんかをストーキングするというのか。
そんな奇特なやつがいたらお目にかかりたいくらいだ。
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