第56話
*
はるか昔、世は戦国。
時の武将は命を賭した大事な合戦の出陣前には、ゲン担ぎの儀式を行うのが風習であったと聞く。
その中でも有名なのが『三献の儀式』だろう。
打ちアワビ、勝ち栗、昆布の三品を順に食し、それぞれを食べた後に酒を三度づつ、計九回飲み干すというものだ。
最後の杯を飲み干した後、それを地面に打ち付けて割り、軍扇と弓を掲げた大将が
『打って、勝って、喜ぶ』という語呂を併せたものであるが、しかしそれが今でも結婚式の三三九度などの儀礼として根付いていることからも、当時の人々がこの儀式をどれだけ大切にしていたかがよくわかる。
気分的には、俺もぜひその儀式に倣いたいところであった。
なんなら酒を九杯呑むだけでもいい。誰かをではない、自分自身を鼓舞するのが目的だ。
俺にとっての合戦が、そこにはあった。
結月さんとのデート日当日である。
「やっほ、おはよっ愛澤くん」
「はよっす」
俺の姿を見つけた結月さんが小走りで駆け寄ってくる。
結月さんの格好は白いブラウスに薄いグレーのパンツルック。あの夜と同じく、耳元には花をモチーフにしたイヤリングが光っていた。
名目上はデートではあるが、浮足立つことなく普段通り、イメージ通りの結月さんで少し安心する。
いや、単に俺を異性として意識していないだけか。
いずれにせよ、いつも通りのスタンスで臨んでくれる方がこちらとしても余計なプレッシャーを感じずに済んでありがたい。
「いや〜、あっついねえ。夏真っ盛りって感じ」
結月さんはパタパタと手を団扇にして顔のあたりを扇ぐ。
今日は気温35℃を超える天気予報となっていた。
今の時間は10時。暑さのピークまではまだ時間があるが、既に太陽は高く昇っており、照り付ける日差しには全く容赦がない。
「だな。というわけで、早速だけどちょっと涼んでいきませんか、お嬢さん? 今ならサービスしますよ」
そういって俺は、待ち合わせした目の前の建物を指差す。
ここは都内某所にある水族館。
高級ホテルの敷地内に所在しており、駅からのアクセスは抜群。土日は家族連れやカップルで大賑わいを見せているらしい。実際に現地に来て、人の流れを追った限りではその情報に間違いはないようだった。
まあ、キザったらしく誘いはしたものの、当然ながら最初から目的地はここである。
無論、そのことは結月さんもわかっており、
「あはっ、いいね、ご一緒しますっ!」
とノリよく付き従ってくれる。
自分で言うのもなんだが、結月さんは相手を問わず合わせる能力に長けていると思う。能力というか性格というか、要するに空気を読める子だ。
俺の周りの女の子だちは、空気を読めない子、空気を読まない子、空気を読んだうえで尚ぶっこんでくる子、と逆方向のレパートリーが豊富で、結月さんのような女の子は話していてだいぶ気が楽だった。
ん、それぞれ誰が誰かというのはナイショだ。
「結月さん、なんというか今日もオシャレだね。どこぞのモデルかと思ったよ」
「んんっ、ありがとうだけど、なんか無理やり褒めようとしてないかい?」
「そんなことないよ。めっちゃ似合ってる。何なら今までで一番結月さんっぽい感じがして、俺は凄くいいと思うよ」
「んー、このコーデ、前にも愛澤くんの前で着てたことあるんだけどなあ」
「……」
そんな軽妙(?)トークを繰り広げながら、俺たちは連れだって水族館に足を踏み入れる。
自動ドアを潜り抜けた瞬間からひんやりとした空気が身体を包み込み、火照った頭がすぅと冷えていくのを感じる。
わずかに額に残った汗をハンカチで拭きとると、以後汗が噴き出てくることはなくなる。
この猛暑だからこそ、水族館を選んだというのもある。
空調が行き届いているのは当然のこと、視覚的にも涼むことができるというのはありがたい。ショー会場も含めて完全屋内の水族館となっており、館内にいる限りは熱中症などの心配もないはずだ。
結月さんは見るからに体力なさそうだからな。肌も真っ白だし。倒れでもしたら大変だ。白さについては俺が言えた義理ではないが。
カウンターで二名分のチケットを購入し、メインフロアへと歩を進める。ちなみにチケット代は割り勘となった。俺は奢るつもり満々だったのだが、結月さんに固辞されてしまったのである。「私たちは
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