第16話

 身じろぎも、瞬きも、呼吸さえも忘れる。まるで身体から機能が奪われたかのような錯覚。

 俺は否定も肯定もできない。じっと目を伏せ、ただひたすらに時が動き出すのを待ち続けた。

 気の遠くなるような静寂を打ち破ったのは、やはり目の前の小柄で大きな女の子であった。


「大学に入って、初めてせんぱいを見たときから違和感があったんです。わざとらしくキザで軽薄そうなことを言う割には、飲み会で女の子の隣に座らないどころか、絶対に女の子と一対一で話そうとしないし、連絡先を聞きに行く様子もない」

「……」

「自販機コーナーで会った時だって、わたしが近づいたらわざわざ二つ隣の自販機にズレて買いましたよね。わたしが来た時点でのに」


 上郡さんはソファーの前に仁王立ちしながら答え合わせを続ける。


「もしかしたら、この人は女性に近づかれるのが苦手なのかもしれないと思いました。雨の日に部室棟でお会いしたときに相合傘をお誘いしたのはそれを確かめたかったんです。あのときのせんぱい、すごい顔してました。わたしが引いたら露骨にホッとした顔して、正直ちょっぴり傷ついたんですよ?」


 しかし上郡さんの声色には微塵も傷ついた様子は見えなかった。

 淡々とした様子の声だけが頭上から降り注ぐ。


「もちろん、百パーセントの確信があったわけじゃないですけど、さっきの反応でわかりました。せんぱいは――本当に女性が苦手なんですね」

「――ッ!」


 そう言って上郡さんが一歩、二歩とソファーから遠ざかったところで、漸く俺の身体は呼吸を思い出す。

 咳込みながらも浅い呼吸を数度繰り返すと、少しずつ脳に酸素が巡り、思考が取り戻されていく。

 要するに、確信あるように見せながら鎌をかけていたということだろう。馬鹿正直に反応を晒してしまったというわけだ。相変わらずコントロールが効かない自分が嫌になる。


 

 幾度となく聞かされたワードであった。しかしそれは何度聞いても頭を強く打たれたかのような錯覚を覚える。


 彼女の言う通り、俺は女性とのコンタクトに問題を抱えている。

 と言っても一切合切のコミュニケーションが取れないというわけではなく、『身内以外の女性が』、『自分に対して注意を向けていて』、『自分の周囲約1メートル圏内に近づいたとき』、俺の身体は一切の自由を失う。なんだか念能力の発動条件のようになっているが、ただ単に自分を雁字搦めにする忌々しい鎖だ。

 この約1メートルというのはあくまで目安で、実際には距離が近づくに連れて相手の接近を自分自身が強く意識し、徐々に身体が動かなくなっていくという感覚に近い。相手が俺のことだけを見ていれば見ているほど、症状は色濃く表れる。


 たとえ、机を挟んでの談笑がどれだけ楽しかろうとも。

 俺は決して、その隣に座ることはできない。


 理屈でも理性でもない、本能の拒絶。


 医者に言わせれば一種のPTSD。より一般的な言葉を使えばトラウマというやつだ。

 高校の頃のが起因となっていることはわかっている。

 あれから三年近く経過するが、未だに俺は過去と向き合うことができていない。


 嘘偽りない自分の本心として、女性のことが嫌いだと感じたことは一度としてないし、むしろ恋人を作りたいとも思っている。

 それでも自分でもコントロールの利かない心の奥底に潜む怪物がそれを許そうとしない。


「……ごめんなさい。追い詰めるつもりはなかったんです」


 気が付けば俺は汗だくになっていた。Tシャツが肌に張り付き、繰り返される浅い呼吸によって浮き沈みする胸部はさぞ痛々しいことだろう。

 俺の様子を見かねてか上郡さんは申し訳なさそうに目を伏せる。

 それは彼女がこの部屋に来て初めて――それどころか彼女と出会ってから初めて見せるリアルな感情表現であった。


「せんぱいの本音を引き出したくて、せんぱいに苦しい思いをさせてしまいました。本当にごめんなさい」

「……あの、さ。さっきも聞いたけど、上郡さん、一体何がしたいの?」


 言葉尻にほんの少しの怒気を含め、上郡さんの意思を問う。


 俺は未だに彼女の真意を測りかねている。

 上郡真緒が今、求めていることはなんだ?


「せんぱいのことを理解して、ようやく本題に入ることできるんです」


 上郡さんは視線を上げ、再び俺の顔を見据える。


「――せんぱい、わたしと取引しませんか?」

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