第62話

 程なくして、誘導の灯りが少しずつ小さくなっていく。BGMとして流れていたヒーリングミュージックも気が付けば聞こえなくなっていった。

 眼前に広がる灰色のスクリーン。

 ふと隣に目線をやるが、既に結月さんの顔は見えない。


『――ようこそ、星々の集う世界へ』


 辺りに響く、抑揚の利いた低く、聞き心地のよい声色。

 ホールのどこかで発せられた小さな悲鳴が耳朶を打つ。


『これから、皆さんを素敵な天空そらの旅にご招待いたします。漆黒の世界に煌めく光の贈り物を、ともに見つけにいきましょう』


 それは、映画やアニメにさほど詳しくない俺ですら聴き覚えのある特徴的な声色。

 代表作を挙げ始めれば枚挙に暇がないほど、誰しもが知っている超人気男性声優の声だった。


 そう、このプラネタリウムでは、期間限定で場内解説を声優が務めるイベントが行われているのである。

 当然、声優という業種を考えれば、それはよくあるイベントと言ってもいいだろう。しかし今回アナウンスを務めるのは、特に女性から抜群の支持を得ている男性声優である。期間限定ということ、また夏休み期間ということも相まって、このプラネタリウムは平日も含め連日満員となっているらしかった。


 当然、気軽にチケットを入手できる状況ではなかったのだが、転売対策ということでチケットの前売りは一切行われておらず、入場するためには当日の開場前に配られる整理券を入手する以外の方法はなかった。

 この点は俺にとっては僥倖だった。ネット上の早い者勝ちでは半ば運ゲーにもなりがちだが、当日の朝、早起きするだけでいいのであれば大した労ではなかった。

 早起きは苦手じゃない。

 まあそんなわけで、お陰様というべきか、ちょっとした努力で整理券を入手することができたのである。


『避難の際は、係員の誘導に従い――』


 現在、場内では、非常時の対応など事務的な説明が流れていた。それ自体はプラネタリウム本編とは関係がない単なる説明に過ぎないのだが、しかし流れてくるのは相変わらずのイケボということもあり、会場のあちらこちらがざわざわと色めき立つ。


 ……というか思っていたよりもざわつきが大きい。

 これ、本編が始まる頃には静かになるんだろうな……。

 そんな一抹の不満を抱えながらこっそりと目線を隣に向けてみる。


「……」


 相変わらず結月さんの顔は見えない。しかし声優のアナウンスが流れ始めた瞬間、彼女の肩が一瞬ぴくりと震えたことを、図らずも俺は感じ取っていた。きっとこの距離感でなければ気づかなかったことだろう。


 上郡のリサーチには続きがあった。

 なんでも結月さんは今アナウンスしている声優の大ファンなのだそう。いわゆる推しというやつだった。

 そうは言ってもしっかりと弁えている結月さんだけあって、さすがに周囲に乗じて声を上げるようなことはなかったが、しかし時折聞こえる吐息は、心なしかいつもより深く感じた。

 や、結月さんの普段の呼吸を知っているわけでもないのだけれど。


 ちなみに上郡曰く、星の情報とは異なり、こちらの情報は限られた人間しか知らなかったらしい。天体情報だけでは足りないと考えた上郡だったが、この情報にたどり着くにはそれなりに骨が折れたと口を尖らせる。


「これは大きな貸しですね。さて、どういう風に返してもらいましょうかね。ちょっと考えておきますか」


 珍しく疲れを露わにしながらそんなことを言っていた。

 人付き合いを決して得意としているわけではない上郡にとって、自分のネットワーク外の人間と話をするのはそれなりに労力を要したということだろう。

 雪だるま式に債務が増えていかないよう、定期的に返済しないといつか首が回らなくなりそうだ。


 ともかく、これで天体と声優というカードが出揃ったわけであり、そこにあつらえたかの如くこうしたイベントが開催されているというものだから、これを利用しない手はない。


『――それでは、これより旅をスタートいたします。美しい世界を心ゆくまでご堪能ください』


 説明が終わると同時に、天空がぐるりと回る。

 浮かび上がる幾千もの煌めき。

 上映が始まる。



『耳をすませば、きっと星たちの歌声が聞こえてくるはず――そう、これから始まるのは星が奏でるオーケストラ』


 いざ文字に起こしてみると咀嚼は出来ても嚥下は出来そうにない不思議なフレーズではあるのだが、しかしイケボとは不思議なもので、聞き心地の良い自然な言葉としてすんなりと耳に入ってくる。


 喋り出しのトークはともかくとして、その後は天球の回転に合わせ、穏やかな声で丁寧な解説が付け加えられていく。ちなみに既にざわつきは消え失せている。

 俺はお世辞にも星に明るいわけではないのだが、星は明るくとも星には明るくないのだが、しかしそんな浅学非才な俺でも知っているような星座の説明も織り交ぜてくれるお陰もあって、自然な形で劇に没入することができていた。

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