第61話
「いや~、愛澤くん、やったねぇこれ」
「いやっ、いやいやいや! だって俺ちゃんとダブルシートを予約したはずなんだって。これ、ペアシートってやつじゃ、あれ?」
もしや。
俺はスマートフォンを開く。
検索。
サイトに書いてあるのは『ダブルシート:2,000円/人、ペアシート(ツイン):1,800円/人』の文字。
(ツイン)って。
もしや、あの別れている方がペアシートで、一緒になってる方がダブルシートってこと?
ようやく脳が理解する。
どうやら俺は致命的な見落としをしていたらしい。
「まあ、ダブルといったら普通こんな感じだよね、ホテルとかでも」
「あわわわわわ」
「そんな漫画みたいな焦り方しなくても」
「どうしよう」
結月さんのツッコミすら耳に入らないほど、焦燥感が脳内を支配していた。
中学の期末考査で消しゴムを忘れて臨んだ時のことを思い出す。あの時もスーパー焦ったなあ。シャーペンの反対側の消しゴムをフル活用して事なきを得たんだっけ。意外と出番があるよね、あの消しゴム。
などと軽い現実逃避に走りかけるが、俺は頭を振って思考を現実に引き戻す。
イベントの影響もありこの上映は満員だ。当然ながらシートに空きなどありはしない。どころか、イベント期間中はどの上映回も満員だろう。今から代替などできるはずはなかった。確かめるまでもない。
しかし、しかしだ。
このカップルシートに二人で寝転がるというのは、どう考えてもダメだろう。
俺の
……俺が床に寝っ転がるしかないか。傍から見れば何してんのこいつ状態だろうが仕方がない。
もしそれで係の人に注意されたら――その時はその時だ。
「ねえ、愛澤くん。もしかしてさ、俺が床に寝れば万事解決~とか思ってない?」
しかしそんな思考は結月さんには筒抜けらしい。
「……だって、それしかなくないか」
「……はあ」
嘆息。
「別にいいよ」
「……え」
「愛澤くんだったら、別に、いい」
場面が違えば、とんでもない勘違いをしてしまいそうな発言だった。
無表情ではあったが、されどその瞳には有無を言わさぬ迫力を感じる。
「でも」
「だって、ただ単に横になって寝っ転がるだけだよ。そんな気にするようなことじゃないもの。ほら、合宿とか宅飲みなんかでも気づいたら雑魚寝してるでしょ? それと一緒」
そうは言うが、少なくとも俺は、彼女がそうした場で雑魚寝をしている姿をみたことはない。
宅飲みでも必ず終電までには帰っていたし、去年の合宿でも飲み会会場からスッと自室に戻っていく後ろ姿を朧気乍ら覚えている。
折り目正しく、規律正しく、清く正しい。
品行方正を絵に描いたような結月さんが酔いつぶれてほかの誰かの横で雑魚寝する姿など、とてもじゃないが想像できそうになかった。見てみたいという邪な気持ちの一方で、同時にそんな姿の結月さんは見たくないと思ってしまうのは理想の押し付けなのだろうか。
「それともなにかな、愛澤くんは暗がりにかこつけて隣で眠る美女にイタズラしちゃうタイプなのかなあ?」
「するかあ! それだけは天地神明に誓って、ないよ」
茶化したような表現で優しく空気を砕く結月さん。
自分で自分を美女と宣っても嫌味を感じさせないのは彼女のパーソナリティの為せる業だった。
俺の回答に結月さんは優しく微笑む。
「だよね。愛澤くんが自分自身を信じているように、
ちょんちょんとリクライニングシート――というよりはもはやベッドに近いそれを指差す。既に彼女は腰を下ろし始めていた。
確かに上映までもう幾ばくも無い。少なくとも、このまま突っ立ってるわけにはいかないだろう。
彼女がこう言う以上、もはや俺に選択肢はなかった。
「……失礼します」
「はい、失礼されます」
彼女の待ち構えるシートにゆっくりと体を横たえる。広そうに見えたシートではあるが、しかし大の大人が二人も肩を並べるとさすがに狭く感じる。彼女に触れてしまわないようにするのがやっとだった。カップルが利用することが前提なのだろうし、それは至極当然のように思えた。
これは、なかなかの試練だな……。
しかしお互い天井のみを見つめているという状況のおかげで、幾分か気は楽であった。
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