第63話
「ねえ、愛澤くん」
こそりと、小さな声で結月さんがこちらに問いかけてくる。
それは俺だけに聞こえるような、小さな囁き声。
上映は中盤に差し掛かっていた。
春夏秋冬、季節ごとの星座が天井いっぱいに拡がるプログラムとなっており、今は夏の夜空が映し出されている。
この時間は、一時的に天の声もストップしていた。
インターバルとでもいうべきか、観客が自由に星空を眺める時間として設けられているらしい。
先ほどまで解説と天体に集中していたであろう結月さんが話しかけてきたのもそういった背景である。
「ん?」
「夏の大三角って知ってる?」
「……おい、あまり俺をなめるなよ。小学生レベルの話じゃねえか」
「ああ、うん、そうだよね、ごめん」
「多少は知ってる気がする」
「なんでちょっと自信なさげなのよ」
「デネブ、アルタイル、ベガって名前だけは知ってるぞ。どれがどれかはわからん。ははっ、まあ俺は文系だからな」
「小学生レベルの話なのに文系を逃げ道にしちゃダメでしょ、もうっ」
そう言って結月さんは小さく笑う。
「じゃあ、問題です。アルタイルはどれでしょう?」
「アルタイル。確か、わし座だよな……うーん、わしっぽいのはあれ、かなあ」
俺はまっすぐ腕を伸ばし、ちょうど俺から見て真上辺りにある、ひと際強い光を放つ星を指差す。
何の根拠もない、ただの当てずっぽうだった。
「どれどれ」
「あっ」
「――あら、ざーんねん。はずれ。それはこと座のベガね」
結月さんがこちらに頭を寄せ、俺の腕の軌道を覗き込む。
ふわりと香る、結月さんの優しい匂い。きっといいシャンプーやトリートメントを使っているのだろう。なんてことを考えてしまう自分が変態みたいで嫌になる。
「ベガが織姫で、アルタイルが彦星。その間を流れる天の川の上をデネブのはくちょう座が飛んでいるの」
「ああ……それくらいは知ってる。七夕の話だしな。ちょっと時期は過ぎちゃったけど」
「それがね、もともと七夕って言うのは旧暦の七月七日のことを指してるんだ。伝統的七夕って言うの。今年でいえばね、文芸部の合宿の最後の夜がちょうどそうなんだって」
「へえ、それはなんとも――ロマンティックな夜になりそうだな」
「そんなこといって、どうせお酒飲みすぎで潰れてるタイプでしょ、愛澤くんは」
結月さんの顔は相変わらず見えないけれど、というかこの距離で結月さんの方を見ることなんて俺にはできないけれど、それでも彼女がとても楽しそうにしているのは言葉の端々から感じる。
それは――心の底からの笑いなのだろうか。
「愛澤くんは夏の大三角のどれが好き?」
「どれがどの星かもわからなかったやつにそれを聞くのか……ええと、まあ、強いて言うなら、彦星のアルタイルかな」
それは単純に、彦星に感情移入しているだけかもしれない。
特に理由らしい理由などそこにはなかった。
「ふうん、そっか。男の子だもんね」
「結月さんの方は?」
「うーん、私は――デネブ、かな」
それを聞いたとき、意外という感情は特に抱かなかった。
なんとなく、そう答えるんじゃないかと直感していた。
こっちも、理由らしい理由はないのだけれど。
「それは、どうして?」
「夏の大三角って、どれも同じ明るさに見えるでしょ? でもね、デネブだけは他の二つの星よりも遥か遠くの星なんだ。ベガとアルタイルは大体、地球から二十光年くらいの場所にあるんだけど、デネブだけは三千光年も離れてるんだって。その分、デネブだけは他の星とは段違いで明るいから、地球からは同じ明るさに映るんだ」
デネブだけ。
繰り返すように結月さんは呟く。
三千光年。
途方もなさ過ぎて途方に暮れそうなくらい、実感の湧かない数字だ。
「自分ひとりだけ遠く離れた場所にあってさ、織姫と彦星みたいな特別な結びつきもない。一人でに輝くだけの、孤独な星。なんだか可哀想になっちゃってさ、不思議と感情移入しちゃうんだよね」
「……そっか」
「あはっ、デネブからしたら余計なお世話って感じだろうけどねー」
そう言って結月さんは笑うと、静かに口を閉じた。
デネブと自分を重ねて見ているのだろうか。
自分ひとり。
孤独な星。
結月さんは、そう感じているのだろうか。
俺はなんて声をかければ良いのだろう。
「……なあ、結月さん」
俺は考えもまとまりきらぬまま、見切り発車で口を開く。
「なあに?」
「
「……そうだね」
「もし晴れたなら、生デネブがどこにあるか教えてくれよ。三千年前の光ってやつを、生で見てみたいんだ」
「……あはっ、いいよ。教えてあげる」
呆れたように、けれど愉快そうに結月さんは呟く。
「晴れると、いいねえ」
この言葉にも、根拠はないのだけれど。
きっと晴れる、そんな気がした。
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