第102話

 結月さんに聞いていた情報通りであれば、上り坂の到達点、なだらかな丘の頂上であるこの場所が中間地点と言うことで間違いないだろう。

 広場と言っても別に公園のようになっているわけではない。ただの何もない空間だ。

 けれどこの林の中においては、何もないということこそがこの場所を十分に特別な空間たらしめていた。


「――か、上郡ッ!」


 息も絶え絶えにそう叫ぶが、応答する声は聞こえない。

 痛いほどに煩いセミの鳴き声と、日本の夏特有の多湿環境が音の反響を妨げているのだろうか。

 わかったのは、俺の声が届く範囲、少なくともこの広場には上郡がいないということだけであった。


 俺は広場をぐるりと取り囲む茂みの中を見て回るがやはり人影は確認できなかった。


「くそっ……!」


 俺は広場の最奥、眼下に広がる斜面を見下ろしながら、思わず歯噛みする。


 どうする。

 斜面に飛び込むか?

 ……いや、それで俺まで遭難したら洒落にならない。木乃伊取りが木乃伊になるどころの話じゃない。

 さしもの俺も自重する。


 別にの話であれば構わない。それで手を打ってくれると言うのであれば火の中だろうが水の中だろうが、崖の下だろうがどこにでも飛び込もう。多少の怪我を負おうが二人揃って戻ってこれるのであれば大した問題ではない。

 ただ、もし俺まで遭難してしまったら、それは最悪以外の何物でもない。他の人にさらなる迷惑をかけてしまうこと、彼らの足手まといになってしまうことだけは絶対に避けなければならない。


 そもそも、上郡が本当に滑落したかどうかもわからない状況で突撃するのは、無謀を通り越して愚行だ。蛮勇とさえ呼ぶに値しないだろう。


 自己犠牲を払うのであれば、最低限の結果が担保されていなければ割に合わない。

 結果を伴わない自己犠牲は――単なる無駄死にだ。


「なら、どうするか――」


 それでも、姿が見当たらない以上、上郡が滑落したという前提で動くのが得策であろう。それ以外のケースであれば、じきに上郡は見つかるはずだ。仮に熱中症をおこして茂みで倒れてしまっているのだとしても、目の届かないほど深い場所に隠れているということもあるまい。俺を脅かすために隠れていたのであれば、きっと飛び出しやすい場所に隠れていたはずなのだから。

 その場合、俺の動きは結果的に完全な取り越し苦労となってしまうが、上郡が無事であるならばそれに越したことはない。


 考えろ。

 俺は今何をするべきか。

 何をするのが最善か。


 俺は広場の端に立ち、今一度斜面を覗き込む。

 崖と形容するほどの激しい傾斜ではないが、おむすびくらいなら容易に転がってしまいそうな斜面ではある。夏らしく草木が生い茂っており、やはり谷底までは見通せない。仮に途中で木々に引っかかったとしても、上郡の小さな体軀では登ってくることは容易ではないだろう。


 だとしたら。

 上郡ならどうするか。


 あの合理性を絵に描いたような女なら。

 書き初めで『理』という一文字を書きそうな女なら。


 答えは単純明快。

 きっと――斜面を最後まで下って行ったに違いない。

 斜面と言っても、下った先が針の筵ということもあるまい。


 頭の中で地図を思い浮かべる。

 詳細な地図なんかではない。東西南北すら満足に描かれていない地図だ。

 脳裏に浮かべた真っ白な背景に、旅館の場所、BBQ会場の場所、そして俺の足跡を記していく。


 俺の記憶が正しければ、この斜面の下は昼間通りがかった道に続いているはずだ。

 なんの偶然か、ちょうどパンツを拾った、あの場所に。そうだ、俺は小高い斜面を背にパンツを拾ったことを覚えている。


 いや、もしかしたらパンツを拾ったからこそ、ここまで鮮明に地図を思い描けているのかもしれない。だとすれば、やはりあのパンツは神からの贈り物、天啓に等しいものだったのだろう。少なくとも友口が懸念するような悪意の込められた何かでは決してないと俺は断言できる。そもそもパンツに悪意なんて込められているわけがない。そこにあるのはいつだって神秘性だけなのだから。


 ……。

 こんな時にバカか俺は。

 やはりなにかしらの呪いを受けているのかもしれない。


「っし」


 俺はバシンと両手で頬を引っ叩き、バカみたいな煩悩を追い出す。


 パンツはともかく。

 ともかくとしてだ。


 さあ。

 ここまでまとめた情報と推測を踏まえて俺は何をするべきか。


「――って、そんなの決まってるよなあ」


 不出来な俺に出来ることなんてそもそも限られている。

 今さら悩むことではない。というか悩んだところで変わらない。

 答えはシンプル、かつ一つしかないのだ。


「走るだけだろうが!」


 俺はガクガクと震える足を奮い立たせる。筋肉が一度休んだことで、余計に重さを感じる。

 額の汗を拭い、深呼吸をして生暖かい空気を肺いっぱいに取り込むが、それでも心臓の鼓動は収まらない。筋肉は悲鳴を上げ、全身が疲れ切っているのがよくわかる。

 押し寄せる疲労の波に思わず苦笑する。たかだか数分間のダッシュでこうも体力を持っていかれるとは。あの頃の自分が今の俺を見たらきっと高らかに笑い転げることだろう。


 そんなことを考えながら、俺は重力に引かれるまま足を一歩、また一歩と踏み出す。


 目の前に待ち受けているのは長い下り坂だ。

 この道を走っていけば、下道に続く岐路に辿り着くはず。

 膝を曲げ伸ばししながらブレーキをかけるように走ることになるため本来下り坂の方が負担は大きいのだが、しかしまあ俺には関係のない話だ。


 お生憎様。

 人生下り坂の連続なもんでね、この程度の坂道には慣れている。

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