第90話


 結月さんとの密会を終えた俺は、どうにもそのまま執筆作業に戻る気になれず、気分転換を兼ねて旅館の周辺を散策していた。


 旅館はちょっとした丘陵地に立っていて、敷地の外に一歩足を踏み出すと青々とした木々がぐるりとこちらを取り囲む。近くにはちょっとしたキャンプ場も併設されているようで、林の中と言えど獣道というわけでもなく、しっかりと舗装された遊歩道が続いていた。散策コースとしても楽しまれているのかもしれない。これなら道に迷うこともなかろう。


 うだるような暑さの中ではあったが、しかし森林浴しているようでもあり、存外気分は悪くない。木陰も多く、思いのほか汗をかくこともなさそうだ。ああそういえば、俺Tシャツの余裕ないわけだし、しばらく着替えられないんだよな……。散歩に飛び出してから気が付くとは不覚。


 そんなことを考えつつも俺は歩みを止めることはなかった。

 机に向き合って凝り固まった首、肩、腰をほぐすように伸びをしながら、ゆっくりと大自然に己の影を溶け込ませていく。


 途中、俺と同じように森林浴でもしているらしい家族連れやカップルを何組か見かけたが、さすがに文芸部メンバーはみな缶詰になっているようで、三十分ほど歩き続けたものの見知った顔と遭遇することはなかった。


 まあ、別に俺も執筆ペースにそこまで余裕があるわけではないのだが、実体験をコンセプトにしているだけあってストーリーメイクにそこまで時間をかけなくて済むのはありがたい話であった。なんなら、ストーリーに活かせる新しい材料でも見つけられないかと思い散歩に勤しんだまである。


 結果は上々だった。

 新しい発見もあったし、気分もリフレッシュできた。

 俺は旅館に戻るなり、ハンドタオルで簡単に身体の汗を拭うとすぐさま執筆活動を再開させる。


「あれ愛澤、お前いつの間に戻ってきてたんだ。つーかどこ行ってたんだ」


 大広間にて新たにスペースを確保した俺を見つけた友口が、近くの椅子をガラガラと乱雑に引き、ドカリと腰かける。


「別に、散歩に行ってたんだよ。なんだよ、なんか用か?」

「いや、そういうわけじゃねえけど。てっきりストーカー野郎に簀巻きにされてどこいらにでも誘拐されたのかと思ってたぜ」

「たかが一時間ちょっと外したくらいで、んな大袈裟な」

「いやいや、俺は割と真面目に危惧してるんだけどな」

「ねーよ。友口にしては変なとこ気にするなあ。まだ林道で迷って遭難しちまうって方が可能性あるっつーの」


 歩道は舗装されている場所とそうでない場所が疎らだった。丘陵地なだけあってアップダウンもそれなりに激しく、少し道を踏み外そうものならそのままおむすびころりんしてしまう虞もある。

 ……いや、これは断じて前フリや伏線などではないのだけれど。

 三十分、林道を歩き回った俺の純粋な感想である。


「とりあえず散歩で新しい発見もあったからな。記憶冷めやらぬうちに、熱冷めやらぬうちに、俺はこのパッションとインスピレーションを文字に起こしたいんだ。邪魔するんじゃねえ」

「邪魔はするつもりねーけども。そんなノリノリになるほどの新しい発見ってなんだったんだよ」

「ん、ああ、これだ」


 そう言って、俺はハーフパンツのポケットから丸まった布のようなものを取り出し見せる。


「……なにこれ」

「パンツだな」

「は?」

「正確にいうと女性用下着だ」

「……誰のだ。お前、一体誰のモノを盗んだんだ! 吐け! 今ならまだ罪は軽いぞ」

「ばかおまえ、声がでけえよ」


 友口の声につられて作業をしていた部員の何人かが顔を上げ、こちらに視線を向けていた。俺は声を荒げる友口を宥めすかす。

 やましい事はないとはいえ、さすがに下着を握っている事が大っぴらになるのはあまり愉快な話にはなりそうにない。


「ちげえって。これは拾ったんだよ。拾得物だ」

「拾った? どこでだよ。まさか女子部屋で、なんて言わないだろうな? そんな無敵理論は世の中通用しないぞ」

「んなわけねえだろ。お前、俺をなんだと思っていやがる。俺が性犯罪を犯すような人間に見えるか? もし見えるって答えるなら戦争開始だ」

「じゃあどこでこんなモン拾ったってんだ。今日日、落ちてるパンティを拾うイベントなんざ遭遇したことねーよ。なんだ、風呂場に向かう廊下にでも落ちてたのか?」

「いや、さすがにそれは落とした側が気づくだろ。曲がり角で食パン咥えた女子高生とぶつかるくらい現実味がねえよ。これはな、散歩してる時に道端で拾ったんだ」

「もっと現実味がねーよ。全編オールフィクションだろ」


 友口は俺の言葉を信じていないようだった。

 信じ難いかもしれないが、しかし本当のことなのだから仕方ない。


 散策を始めて十分ほど経った頃だったか、俺は手すりに引っかかっていたこのパンツを発見したのだ。

 それはフリルのついた、可愛らしいピンクのパンツだった。風に煽られ揺れる様は、さながら頭上ではためく国旗のように悠然として見えた。上手い具合に手すりの隙間に引っかかっており、強い風が吹いても飛ばないよう強く固定されているようだった。


「きっと近くの旅館から風に飛ばされてきたんだろう。今日は割と強い風が吹いてたしな。しかし見つけたのが俺でよかったよ。変態の手に渡ったりでもしたら大変だ」

「道端に落ちてたパンティを迷いなく拾って持ち帰ってくるお前も十分変態だよ」

「失礼な。俺はあとでちゃんと近くの警察に持って行くつもりだ」

「そのまま逮捕されるぞ、お前」

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