第89話

「小説もね、アイデアが全然思い浮かばないんだ。色々と考えてはみるんだけど、いっつも私自身で否定しちゃうの。こんなのが面白いと思ってもらえるわけがないって。そこで手が止まる。本当の私なんて、みんなのアイデアを分けて貰わなければ小説の一つもまともに書けない人間なんだって、やっぱりちょっと落ち込むよね」

「……そんなのは向き不向きの問題だと思うけどな。俺だって大した文章が書けるわけじゃないし。でも、それだけで人間の価値が決まるわけじゃないだろ」

「そうだね、うん、そう思うよ。でも、小説の一つもまともに書けない私を、『私』が認めてくれないんだ」


 きっとそれはプライドだとか劣等感だとか、そういった次元の話ではないのだろうと思う。

 彼女が彼女として在り続けるために必要なアイデンティティ。

 結月実里を定義する境界線。


「私ね、そういう素の自分を見せるのが怖くなっちゃったんだ。幻滅されるのが怖い、失望されるのが怖い、見捨てられるのが怖い。実はね、今こうして話してるのも、本当は凄くドキドキしてるんだ。こんな話、愛澤くん以外にはしたことないから。上郡さんは本当に鋭いよ。あはは、私が抱えてること、1発で当てられちゃった」


 結月さんの表情に寂寥感が滲む。


「上郡さんに言われて改めて思ったよ。これまで私がしてきたことって、それがどれだけ優しさに満ちた行為に見えても、慈愛の精神に溢れた振る舞いに思えても、結局は『優しい人間である結月実里』という殻を守るためのものでしかないんだって。私は私のためにしか生きられない人間なんだって」


 やらない善よりやる偽善とは言うけれど。

 私はどこまで行っても『やる善』にはなれない。

 本物には、なれない。


 結月さんはそう言った。


「だからかな。私には愛澤くんが眩しすぎるんだ。常に一生懸命で、実直で、飾らない。いつだって誰かのために動ける本物だよ。愛澤くんを見ていると、なんだか責められてるような気がして、胸が苦しくなるんだ。うん、もちろん、愛澤くんは何一つ悪くない。悪いのは私」

「そんなことは――ないよ。結月さんは俺を誤解してる。俺だって本物なんかじゃない」


 むしろ胸が痛いのは俺の方だ。

 俺はそんな大それた人間じゃない。過大評価にも程がある。


 俺が誰かを助けたいと思っているのは純粋な贖罪。

 その根っこにあるのはただの罪悪感。

 助けられなかった『誰か』に対する埋め合わせだ。


 俺だって、本物なんかじゃない。

 本物になり損ねた、ただの弱い人間だ。


 それでも。


「俺は本物じゃなくてもいいと思ってるよ。本物のように強くあろうとすることは悪いことじゃない。そうする限りにおいて、少なくともんだ。それに理由はどうあれ、俺たちの行動で少しでも救われた人がいるのであれば、偽物だって案外捨てたもんじゃないだろ?」


 結月さんは俺の言葉に頷きつつも、未だ浮かない表情のままだった。


「そう――なのかな。でも私なんかじゃ、きっと誰ひとり救えてなんかいないよ」

「そんなことねーよ。別に映画みたいに劇的なストーリーじゃなくたっていい。会話一つで、行動一つで人って救われるものなんだよ。飲み会の盛り上げ役を果たしてくれたり、新歓期には後輩の面倒を積極的に見てくれたり、みんなそういう結月さんの優しさに触れてるよ。結月さんは謙遜するかもしれないけどさ、でも救われたかどうかなんてのは救われた本人が決めることだと思うんだ。結月さんが誰かを救えたかどうかは――周りの人間が決めることなんだよ」


 結月さんは黙って俺の言葉に耳を傾けている。


「あの夜……俺が佐藤さんの告白を断った時もすぐにフォローしてくれただろ? 俺が言うのも変な話かもしれないけど、結月さんのおかげで佐藤さんの気持ちは少なからず落ち着いたと思うんだ。それに何よりだいぶ気が楽になったんだよ。俺は間違いなく、君に救われたんだ」


 あの夜、迷いなく佐藤さんを追いかけてくれた結月さんがいなければ、公園で受けたあの電話がなければ、俺はうじうじといつまでも公園のベンチで項垂れていたことだろう。

 俺と上郡の関係も始まらなかったに違いない。


「断言するよ。結月さんは人を救っている。そして覚えていてほしい。結月さんが救った人の数だけ、君を救いたいと思っている人がいることを。もちろん……俺も含めてね」

「――ッ!」


 結月さんは声にならない声を上げると、俺から目を逸らした。


 そのままほんの少し、結月さんは黙り込む。

 不思議と、先ほどとは違って今度はそれほど気まずい沈黙ではなかった。


 数秒か、あるいは数分か、どれほどの合間かはわからない。その沈黙は、それほど短い間には思えなかったし、それほど長い間とも感じなかった。

 ともかく一息落ち着いたらしい結月さんは、ほぅとまさしく一息ついたのち、柔らかな笑みを浮かべてこちらに向き直る。


「……愛澤くんはほんと、女ったらしだよねえ。愛澤くんが吐く甘いセリフにはホント限界がないね。さすが、サトちゃんや上郡さんを手のひらで転がすだけあるなあ。あはっ、思わず私まで転がされちゃいそうになっちゃったよ。よっ、プレイボーイ~」

「俺が二人を侍らせてるみたいな言い方はやめろ」


 手のひらで転がされてるのはどう考えても俺の方だろう。

 どころか、踊らされているまである。

 手のひらの上でブレイクダンスだ。


「……ねえ、一つ聞いてもいい?」


 クスクス笑いを堪えていた結月さんが不意に切り出す。


「なんだ?」

「愛澤くんは偽物でもいいって言うけどさ。じゃあ、本物でも、偽物でもなくなったとき、私たちは何になるんだろうね?」

「……そうだな」


 それは深いようで、実はそこまで深くもない問いのように俺は感じた。

 悩むまでもない。答えは遠いようで、近いところにあるのだ。

 きっとそれは。


「――大人になるんじゃねえの」


 きっとそれは、大人と子どもの狭間にいる俺たちだけが悩める問題なのだろう。


 見つめた窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。

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