第88話

「あは、ごめんね。でも凄いと思ってるのは本当。それだけ辛いことがあっても前を向き続けられるのは――すごくかっこいいと思う」


 先ほどまでの表情とは異なり、ほんの少し照れたように伏し目がちでそんなことを言う。

 飴と鞭のアップダウンが激しすぎて高山病になりそうだ。

 俺の心でお手玉するんじゃねえ。


「愛澤くんのお話を聞いた後だとさ、私が悩んでることなんて風が吹けば飛んでいきそうなほどちっぽけに思えてきて、なんだか自分の矮小さを痛感して胸が苦しくなってきちゃうんだ」

「悩みに大きいも小さいもないと思うけどな。悩みなんてのはとどのつまり主観的なものに過ぎないわけだし、その大きさを推し量れる客観的な物差しなんて存在しないだろ」

「愛澤くんらしい考えだねえ。私もそうやって割り切れるようになりたいなあ」


 そんな結月さんに俺は掛ける言葉が見つからず、発声の為に吸い込んだ息をそのまま吐きだす。


 やや気まずい沈黙だった。

 俺は結月さんの言葉を待ち、窓の外を見つめる。


「――ていうか、訊かないんだね」

「ん、何を?」

「……訊いてほしいの?」

「うーん、ちょっと恥ずかしいかも。そんな改まって話すほどの内容でもないんだよねえ。でも、愛澤くんの言葉、信じてみようかな?」


 弱みを見せることは弱いことじゃないんだよね? と小さく呟き、結月さんははにかむ。


「私の家ってさ、親も親戚も結構厳しいタイプだったんだよね。教育熱心と言えばいいのかなあ。親は二人とも優秀でね、特に会社の社長をやってる父親の方は本当は息子が欲しかったみたい。あ、別にだからといって理不尽な目にあってたってわけじゃなくて、愛情自体はちゃんと注いでもらってたんだよ」


 俺の表情を見て慌てて付け足す。

 そんな怖い顔をしたつもりはなかったけれど。

 というかサラっと言ったけど、結月さんっていいところのお嬢さまだったんだな……。


「まあでも厳しかったのはホント。それだけ期待してくれてたってことなんだけどね。だから私も応え続けたよ。感じ悪い言い方するけどさ、勉強、習い事、スポーツ、私ってなんでもできるタイプだったんだよねえ。でも、期待に応えれば応えるほどハードルも上がっていってさあ。テストで90点取れなかった時はすっごい怒られたなあ」


 どうやら相当に厳しい子ども時代を送ってきたらしい。

 80点を超えたらご馳走が振る舞われていた我が家とは住む世界が違うようだ。


「テストだけじゃない。少しでも両親が思い描く私の像から外れた行動すると失望されるようになっちゃって。学校の作文で、将来お花屋さんになりたいって書いたらウンと叱られたよ。ううん、これは両親だけじゃなくて友だちとか学校の先生もそうだったなあ。なんていうかな、普段いいことをしている人間が少しでもふざけるとすっごい悪い人に見えるみたいな、言うなれば逆映画版ジャイアン状態になっていたわけなんですよ。不公平だよねえ」


 逆映画版ジャイアンはちょっと面白い。


「中学一年生の時だったかな。女子校に通ってたんだけど、当時は清楚で真面目なキャラだと思われてた私が嫌な先生の陰口をちらっと言っちゃったんだよね、思わず。そしたら『実里ちゃんがそういう子だと思わなかった』って凄く白けた感じになっちゃってさ。あれは傷ついたなあ。いや、陰口を言った私ももちろん悪いんだけどさ、私の前にみんなで散々その先生のこと笑ってたのに、だよ? そんなことが何回かあって、いつの間にかみんなが期待する私を演じるのが当たり前になっちゃったんだよね。あーあ、期待に応える能力があるってのも考えものだなー、なんてね」


 そう言って結月さんは笑みを零す。

 諦観の滲んだ、淡い笑顔。


「正直、楽だったよ。みんなが期待する結月実里ゆづきみのりでいるだけで、親も、教師も、友だちもみんな笑顔になってくれる。私自身、居心地がいいし、みんなが幸せ。いつの間にか、夢見心地な少女はいなくなってた。今の私は妙に現実的で、変に捻くれた、ただの人形――いや、上郡さんの言葉を借りるならロボット、かな。ん、なんだか自分に酔った表現になっちゃって恥ずかしい。愛澤くんはやっぱり凄いね」

「おい」

「あはっ、ごめんごめん」


 結月さんはほんのりと頬を紅潮させ、手で顔を仰ぐような仕草を見せる。


 みんなが望む姿――。

 その『みんな』には結月さん自身は入るのだろうか。

 もし入らないのであれば、きっとその過程で彼女が諦めてきた夢は数知れない。


「『どうせ』だとか『結局』だなんて言葉は、もう言い飽きちゃったよ」


 あとに残ったのは、現実主義の人形ロボット

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