第87話


「と、いうことで今に至るのでした」

「……」


 俺は努めて明るい口調でそう締めくくったが、しかし返ってきたのは沈黙のみ。

 結月さんはどのような言葉を並べるべきか迷っている様子であった。


 まあ、それも当然か。

 こんなこといきなり喋られても反応に困るだろうし、俺だったらなんやこいつってなるもの。

 それを素直に口に出さないだけ結月さんは優しい人間だと思う。


「……愛澤くん、どうして?」

「え?」

「どうして、その話を私にしようと思ったの」


 時間をかけてポツリと吐き出された言葉が、シンと静まり返った室内に溶け込んでいく。


 理由、ねえ。

 俺は思考をまとめながら口を開く。


「うーん、そうだな。上手く言語化しづらいんだけど……言葉を当てはめるとするならば、気づいてほしかったから、かな」

「気づいてって、なにに?」


 人間。

 人の間。

 仏教用語では、普通に人と人との間のことを指す言葉らしい。

 結局のところ、人と人の間にあるものも『人』ということなのだろう。


 逆説的に言えば、『人』は自分一人では『人間』足り得ないということ。

 人間である以上は、きっと自分一人ではないということ。


「俺もさ、あんなことがあった直後は思ったよ。こんなにつらい思いをするくらいなら感情も記憶もすべて捨て去ってしまいたいって。全部見えないフリ、聞こえないフリ、忘れたフリをできたらどんなに楽だろうって、そう思った」


 ロボットのように。

 データをリセット。


「でも、無理だった。見聞き知ったすべてのことが俺の脳に刻み込まれているんだ。都合よくデータを消去するだなんてできっこない。俺たちは生きている限り、新しい痛みを抱え続けていくんだ。どう上手くやったところで、完全無欠、常勝無敗で在り続けることなんてできるわけがないんだよ。けどさ、きっとそうやって傷つくことが――痛みを知り得ることこそが、人間であることの証左なんだと俺は思う」


 今も胸に走る疼痛。

 あの頃から一日としてこの痛みを感じない日はない。


「傷つくことは弱いことの証明なんかじゃない。弱みを見せることは弱いことと同義じゃないんだ。俺もそれに気づくまで随分とかかったけど、でも周りの人たちのおかげで立ち直ることができた。傷ついた分だけ、他人の痛みがわかる人間になることができた。弱くなって、弱くなって、底まで落ちて――最後にほんのちょっとだけ強くなれたんだと思う」


 これは偽りなき本音だ。誰とも口を利こうとせず、すべてをシャットアウトしていたあの頃に比べれば、これでも随分と人間らしさを取り戻せたと思う。女子ともまともに話せるようにはなってきているし。


「今は、結月さん含めみんなが周りにいてくれる。お陰様で、昔のことはもうほとんど気にせずに過ごせているよ」


 これは――本音なき偽りだ。

 それでも必要な嘘だと俺は考える。


 結月さんは黙ったまま正面を見つめ、整った横顔を晒しながらジッと俺の言葉に耳を傾け続けている。

 まあ、こっちを見ているわけではないので、本当に聞いているかまでは読み取れないけれど。

 ……無視されてるってことはないと思うが。


「強くあろうとするのは正しいよ。傷つくことを恐れるのも、弱みを見せることを怖がるのも、どっちも人間の本能だ。でも、だからといってそれらを全部避けてちゃあ、きっと本当の意味で強くなることはできない――なんて、そう思うんだ。まあこれは俺の持論でしかないし、別に結月さんがそうだって言うわけじゃないんだけどさ」

「……」


 ああ、なんか色々言い過ぎてどうにも散逸的になっちまうな。

 それに説教臭くなってしまう。そんなことを言いたいわけじゃないのに。

 俺は後頭部をぐしゃぐしゃとかき乱し、頭の中をクリアにする。


「ええと、つまり俺が言いたいのはさ、もし――もし仮に、結月さんがで悩んでいるのなら、もっと人を頼ってもいいんじゃないかなって……それだけ。きっと結月さんには俺なんかよりもたくさん、頼れる人がいると思うから」


 なんだか長々と語った割に最後は急ピッチでまとめたような感じになってしまった。

 いつだったか結月さんに言われた、『途中まで調子よくて最後小さくまとまる感じが愛澤くんらしい』という言葉を思い出す。

 本当にその通りなので返す言葉もない。


「……すごいね、愛澤くんは。やっぱり、すごいよ」


 結月さんは半身のまま、しばらくぶりに俺の方に顔を向ける。

 向けられた賛辞の言葉に、俺の方が思わず顔をそむけてしまう。


「……んなことねえよ。偉そうなことばっか言ったけど俺なんてただの凡人だ」

「ううん、そんなことない。臆面もなくそういうセリフを言えるところ、ほんとすごいと思う。私みたいなただの凡人には思ってても言えないもの」

「俺の長尺に対する一つ目の感想がそれェ!?」

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