第92話
「まあ、泥沼なんてものをお望みってんならご期待に沿えず申し訳ないですけど、もう問題は解消済みですよ。両者和解済み、オールオッケー、視界良好です」
「みたいだね」
文芸部はキャンプ場に設置されている屋根付きの飲食スペースを利用している。
俺と相楽さんがいま腰かけるテーブルから二つ隣の長机に結月さんと上郡が腰かけ、談笑を交わしていた。
まあ基本的には結月さんが話しかけ、それに二言、三言返す上郡といった、言うなればいつも通りの風景なので、交わしているという表現が正しいかは何とも言えないし、なんなら談笑とすら言えないかもしれないが、しかし少なくとも
「そもそも、あれはそういうのじゃないですよ。ご覧いただいた通り、ご清聴いただいた通り、あれは痴情の縺れとかそういうんじゃないです。あんなのはただの――」
俺は微妙に言葉に詰まる。
あの言い争いはなんと呼ぶのが正しいのだろう?
そもそも――争いですらないのだ、あんなものは。
「ただの、喧嘩ですよ」
結果、最も聞き心地がよく、最も丸い着地点、最大公約数的回答を述べ伝える。
いや、厳密には争いですらなかったのだから、どちらかというと最小公倍数と言う方がニュアンスとしては近かろう。
「ふうん、そうかな?」
「そうです。痴情の縺れなんてのは恋愛感情が前提になるわけでしょう? そもそも彼女たちと俺の間にそんなものはないわけですし、然るに痴情の縺れとは相成らないわけです。相楽さんにしては妙に頓珍漢というか、察しが悪いというか――いや、この場合は悪い察しが良いって感じですかね、珍しい。結月さんは言わずもがな、そんな関係には成り得ないですよ。さすがに、仲が良くないとまでの過剰謙遜はしないですけど。上郡についても――まあこっちも、至って普通の、仲の良い後輩ですよ」
今さら上郡との関係性を取り繕うのはあまり意味がないだろう。仲が良いという表現を隠す必要性は昨日の一件で既に失われている。
しかし、かと言ってどのように答えるのが正解なのか、今の俺にはその解を持ち得なかった。
そもそも俺にとって上郡は何なのだろう?
上郡にとって俺は――何なのだろう?
「ん、そうかね。痴情の縺れの前提条件が恋愛感情と言うのは、まあその通りだろう。
「……や、だからそれは勘違いですって」
「お前から彼女たちへの感情も
「……少なくとも、現時点では」
ここで躍起になって否定するほど子どもではなかった。
自分の気持ちとは正面から向き合えているつもりだ。少なくとも今の俺の心の中に、そういった誰かを思慕する感情はない。
それよりも前に向き合わなければならない高い壁がある。
それを乗り越えた先に、そうした未来が待っているのかもしれない。
その可能性は誰にも否定できないものだ。
誰にも――俺自身にも。
「へえ、ならさあ」
俺の真向いに腰かけていた相楽さんは不意に席を立ち、たまたま空席となっていた俺の隣に移動する。
ガタガタと脚部を揺らしながら椅子ごと俺に近づくと、その端正な顔を俺の方に寄せてくる。
「――私がお前の貞操をもらっても問題ないわけだ」
そう言って、ぬらりと妖しく光る唇を舌で濡らす。
それは絵に描いたような舌なめずりだった。
普段の相楽さんからは想像もつかないほど妖艶な表情に俺は息を詰まらせる。油断すれば吸い込まれてしまいそうになるその瞳を直視し続けることが出来ず、俺は堪らず目を逸らした。
「な――なんすか、急に」
「いやさ、私がラブちゃんに手を出すことで新しい混沌を生み出せるならそれもアリかなって」
アリなわけあるか!
「別に自分から嫌われ役になりたいわけじゃないけど、でも水面に一石投じる役目は誰かが務めないとね。静かなだけの湖なんて面白みがないだろう?」
「お、面白いとかそういう話じゃないでしょう。それに静かな湖だって趣はあると思いますけど……」
「何言ってんのよ。そんなの写真と変わらないでしょ。予定調和的な美しさに私は価値を感じないんだよ。私が求めているのは動的な美しさ。投じられた一石が水面や、そこに棲まう魚、果ては続いて行く川の流れにどう影響していくかを見るのが楽しいんだ。そして私は可能なら、その石を投げる役になりたいのだよ」
それを聞いた俺は思わず閉口する。
相楽さんの言わんとする事はわからないでもない。
しかし石を投じられる方からしてみれば迷惑千万といった感じである。
そもそもどれだけ石を投げようと、そこに魚が棲んでいなければなんの反応も起こり得ないし、そこが湖ではなく沼だったとしたら川の流れに影響を及ぼしようもないのだ。
石の投げ損、投げられ損である。
それに、石を投げるために
というか普通の考え方じゃねえよ。
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