第4話

 6月に入ると少しずつ天気の悪い日が増えてくる。

 雨の時期は苦手だ。天然パーマにとっては害悪でしかない。

 どれだけ丁寧に梳いても、どれだけ綺麗にセットしていても無限にクルクルしてくる。

 個人的には花粉シーズンよりよほど邪悪な季節だと思っている。


「愛澤、このあとヒマか?」


 友口大輝ともぐちだいきから声をかけられたのは、そんな雨下がりの憂鬱な昼過ぎだった。

 友口は同じ学部生で、一年の頃ちょっとした事件で知り合った仲で、以来ちょくちょく昼飯を食ったり、飲みに出かけたりする関係になっている。陽の光をたっぷり浴びたであろう金に近い茶髪にガッチリとした体格、日焼けが似合うナイスガイで、一見チャラそうに見えて話してみると意外にも気が合うやつだった。

 この日も2限の講義終わりでなし崩し的に食堂まで足を運んだのである。

 今日は午後の講義はない。バイトまで時間もあるし、ヒマっちゃヒマだけど、髪がクルクルでナイーブな日だから夕方まではお家デーにする予定だ。こいつに構っているヒマはない。


「ん、ヒマか。んじゃちょっとツラ貸せ」

「まだ答えてねえけど」

「顔に書いてあるぞ」

「んなバカな」

「そう言うと思って先回りして書いておいた」

「何してんのお前!?」


 慌ててスマホのカメラで見てみると『ひ ま』とバカみたいな文体で本当に書いてあった。

 どういう手際があれば人に気づかれず顔にラクガキできるんだよ。持っていたウェットティッシュでゴシゴシと汚れを落とす。


「ちと手伝ってほしいことがあってな」


 友口がカレーをつっつきながら説明する。なんでもテニス部の先輩から部室の掃除を押し付けられたらしい。

 ちなみにテニス部の部室は文芸部と異なり、体育会系の専門部室棟に居を構えているとのこと。

 しかし、なんでまた二年で、しかもレギュラーのこいつがそんな雑用を。


「麻雀でタコ負けしてなあ」

「自業自得じゃねえか」


 どうやら相も変わらず自堕落な生活を送っているらしい。

 時期を考えると当然今の部室を散らかしたのは二年生以上であり、入部したての一年生に掃除をさせるのは忍びないということで、二年が掃除することになったようだ。


「ま、礼はするから一つ頼むわ」

「しょうがねえなあ」

「そうやって渋々感出しながらも絶対助けてくれる愛澤のこと俺は好きだよ」

「やめろよ、キュンとするだろ」

「お前、女に生まれなくてよかったな。絶対ホストに入れ込むタイプだと思う」


 食事を終えた俺たちは部室棟へ移る。外はしとしとと雨が降り続いていた。今日は一日中この天気が続くらしい。

 肝心の部室は酷い有様であった。脱ぎっぱなしのスウェットやグリップテープ、ガットの切れ端が散乱している。大学生であっても部室の汚さは中学や高校と大差ないようだ。

 一つ溜め息をついてから俺と友口は黙々と片づけを始める。汚いもの、いらないものをポイポイとゴミ袋に投げ込む。

 最後に掃除機をかけ、ひと段落ついた頃には15時過ぎになっていた。蒸し暑さも相俟ってTシャツが肌にぴったりと張り付く。

 俺に手伝わせるだけ手伝わせて、バイトの時間が近いからと友口は足早に退散していった。「絶対礼はするから楽しみに待っとけ!」と念押しするところは義理堅い友口らしい。


 バイトは18時からだし、今から帰ってシャワーを浴びてひと眠りできるな、なんてことを思いながらトボトボと部室棟の出口へ向かうと、着いたときに傘立てへ突っ込んだはずのビニール傘がそこにはなかった。

 察するにどうやら傘をパクられたらしい。

 朝から土砂降りなのに傘持ってこないやつ、なんなの……。

 不幸だあああ、と曇天に叫びたくなる気持ちを堪え考える。家まで走れば10分、どうせ汗まみれだし行くかあ。参考書濡れるのやだなあ。


「愛澤せんぱい、おつかれさまです」


 雨音に負けない凛とした声が耳朶を打つ。

 薄ピンクの可愛らしい傘を手にした上郡真緒かみごおりまおが、そこに立っていた。

 雨の中を歩き回りでもしたのか、涼しげなフレアスカートの裾が水に滲んでいる。


「おつかれ。どしたのこんなとこで」


 部室棟は講義棟や図書館棟からは少し外れた場所にある。グラウンドやテニスコートの先、大学の敷地でいえばやや奥まった場所に位置しており、俺自身もあまり馴染みがない。裏門には近いが、駅からは反対方向であり、そちらに下宿している学生以外はあまり利用していないはずだ。少なくとも特に用がないのに立ち寄る場所でもないだろう。

 薄く口を開き言葉を紡ぐ準備をした上郡さんは、何かを思い立ったように不意に傘を傾け、俺の顔を覗き込む。


「……ふふっ、せんぱいを探してた、って言ったらどうします?」


 ドキリと鼓動が大きく跳ねる。それは上郡真緒が初めて見せる蠱惑的な表情だった。

 普段、感情が読みづらい彼女がそんな表情を見せてきている。それも俺だけに向ける感情。それが単なる冗談に過ぎないとわかっていても、ドキドキしないはずがなかった。

 しかし後輩に対していつまでも呆けた顔を見せているわけにはいかない。今まで築き上げてきた俺のキャラを守らねば。


「めちゃめちゃ嬉しい。でもごめんな、俺は誰か一人のものになるわけにはいかないんだ」

「何言ってるんですか?」一転して冷たい目を向けられた。周囲の温度が一気に下がる。

「システム演習があったんです。これから帰るところで」

「ああ、なるほど」


 チラッと視線を部室棟の隣に向ける。俺がこれまでシステム系の講義をとったことがなかったから気づいていなかったが、どうやらこの隣の建物がシステム棟らしい。

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