第100話

「ねえ、愛澤くん。緊張してる?」


 俺と並び歩く結月さんがこちらの顔を覗き込む。

 長々とした独白で心を落ち着かせようとしていたのを見破られたような気がして、俺はほんの少し心が揺さぶられる。

 実際、結月さんはお手洗いに立っていたのだからそんなこと知る由もないのだけれど、なんとなく痛いところを突かれたような気分になってしまった俺は彼女の顔を一瞥することもなく、にべもなく切り返す。


「うるせえな。してるよ、しまくってるよ。言ったろ、肝試しは苦手なんだって。でも大丈夫、俺は既にゾーンに入っているんだ。怖いのなんてへっちゃらさ」

「ゾーン? 愛澤くんサイトレイラーだったの?」

「なんでそっちのゾーンが真っ先に思い浮かぶんだよ」

「あはっ、冗談冗談。でもゾーンって入ろうと思って入れるものなの? そういうのって気づいてしまったら解けてそうなものだけど」

「俺レベルになると自在なんだよ。今の俺は潜在意識と顕在意識が完璧に一致してるからな」

「ふうん。まあそれはどっちでもいいというかどうでもいいんだけど、そっちじゃなくてさ」


 結月さんは適当な相槌とともに素気無く俺の言葉を切り捨てると、静かな口調で続ける。


「私と一緒に歩くの、イヤだったりするかな?」


 ……こっわ。

 なんで分かるんだよ。


「別に、そんなことはないよ。つーか、一緒に歩くのなんてこの間もやってたじゃないか」


 今度こそ正しく図星を突かれた俺だったが、ほとんど硬直することなく努めて冷静にクイックレスポンスできたことについては自分で自分を褒めてやりたい気分だった。


「ああ、そうだね。それはそうだ。じゃあちょっと違うね。表現を変えよう――私と手を繋いで歩くの、イヤ?」


 結月さんの問いかけには一切の茶化しも侮りもなかった。

 あるのはただ只管に、こちらの身を案じる優しさ。

 そんな彼女の優しさが、心のささくれをなぞり上げていく感じがして、なんだか俺は胸が痛くなる。


 俺にできることは、誤魔化すことなく、はぐらかすことなく、率直な自分の気持ちを伝えることだけだった。


「――正直に言えば、緊張してる。イヤだとかそこまでは言わないけど――女の子と触れ合うなんて高校生以来だから」

「……そっか」


 俺は多くを語ることはしなかったが、結月さんは静かに、得心したように頷いた。

 今もなお俺の心に根差した病名としての女性恐怖症トラウマについては細かく言及せずとも、彼女の反応を見ればそれはなんとなしに伝わっているような気がした。

 佐藤さんとのあれこれを含めたこれまでの俺の態度を並べてみれば、その結論に達するのは結月さんにとっては朝飯前なのだろう。


 上郡風に言えば睡眠前だ。

 眠気と戦いながらでも解決できるほど、簡単な推理なのかもしれない。

 なんだよ、結月さんの方こそサイトレイラーと呼ぶに相応しいじゃないか。


「無理しないでいいからね。なんなら肝試し自体エスケープしちゃってもいいんだよ」

「……いや、大丈夫だよ。言ったろ、今の俺はゾーンに入っているからな。怖いものを受け入れた俺に怖いものなんてないのさ」


 俺は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。


 それが詭弁であることは言った俺自身がよくわかっていた。

 怖いものはどこまでいっても、地球の果てまで逃げても怖いに決まっている。三年間もの間逃げ続けてきた俺だからこそ、一滴残らず理解している。

 けれど。


「怖がることから逃げてちゃ成長できないって、そう言ったのは俺の方だしな。言い出しっぺの俺の方がいつまでも逃げてちゃ、結月さんに合わせる顔がねえよ。ダサすぎるぜ」


 それはともすれば詰まらない見栄だと思われるかもしれない。

 取るに足らない見得のように映るかもしれない。

 けれど、俺は目の前の結月さんのためにも、出来る限り過去の自分から目を背けたくなかった。


 結月さんは一瞬キョトンとした表情を見せたものの、すぐに相好を崩し、愉快そうに笑う。


「……あははっ、愛澤くんも、男の子なんだね」

「なんだよ、知らなかったのか? そうだよ、俺だってしっかり漢なんだ」


 微妙にニュアンスが違う気もするがきっと気のせいだろう。


「そっかそっか。うん、オッケー。愛澤くんがそこまで言うなら止めないよ」

「おう、止めてくれるな」

「あはっ、止めないどころかむしろ加速させていくね! グイグイ引っ張っちゃうからね!」

「あ、うん、前を歩いてくれるのはありがたいよ。普通に肝試し自体が怖くて俺一人だと足が進まなそうだし」

「目指せ時速四十キロだよ!」

「いや、プロのスプリンターレベルの速さは求めてない……」


 そんな感じで楽しい会話を繰り広げながら、俺たちはスタート地点へと移動する。


「なあ、上郡から連絡きたか?」


 開催位置に到着すると、進行役を務める一年生男子が相方の女子にそう尋ねているのを耳にする。

 俺たちを引率してきたばかりの女子は素直に頭を振る。


「ううん、来てないよ」

「おかしいなあ。あいつ何やってんだよ」


 苛立ちとも心配ともとれる声色でそう呟く。


 上郡に何かあったのだろうか。

 事前に聞いていた話だと、あいつはゴール地点で待機しているってことだったけれど。


「上郡さんに何かあったの?」


 俺の心を代弁したかのように結月さんがそう尋ねた。


「ええ、あいつ、参加者が通過したらそれをチャットで全体に連絡する役回りだったんですけど、三組前くらいから全然連絡寄越さなくって」

「……ん? したら? あれ、あいつってゴール地点で待ち受けてる役じゃないのか?」


 俺がそう尋ねると、男子はキョトンとした表情を見せる。


「え? いや違いますよ。あいつはなんで、なんですよ」

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