第38話

「な、なにいって――」

「んふふっ」

「――ッ!」


 大事なものを扱うように、愛おしいものを愛でるかのように、美優ちゃんの細く冷たい指が俺の輪郭を優しく撫でる。

 まるで恋人に愛を伝えるような仕草だった。

 ムズ痒く、それでいて心地よくもあるその感覚にぞくりと背筋が震え、俺は思わず息が詰まる。


 先ほどまでの妙に芝居がかった表情とはまた違う、牡丹のように妖麗で蠱惑的な微笑に視線が吸い寄せられる。


 物心ついた頃にはすでに傍にいた美優ちゃん。

 凛としているようでどこか抜けている、俺にとっては姉のような存在。いや、年頃の男子が姉妹と距離を置くことも多いことを考えると、ある意味で姉以上の存在といっても決して過言ではない。

 そんな彼女のこんな顔はこれまで想像したこともなかった。

 誓って、そんな対象として彼女を見たことはない。


 だからこそ、彼女の体温も、吐息も、重みも、表情も、何もかもが新しく刺激的で、俺の脳の奥の方をジンジンと痺れさせる。


「ス、ストップ! 美優ちゃんストップ、プリーズ!」

「はむっ」


 これ以上、彼女をそういう目で見たくないというのももちろん本音だが、それ以上に場の雰囲気に流されてしまいそうになる自分自身が嫌で、彼女に制止をかける。

 しかし美優ちゃんは俺の言葉など意に介さず、逆に彼女を止めようと伸ばした俺の右手首をガシっと掴むと、そのまま口元へと運ぶ。

 小指の付け根あたり、いわゆる掌外沿と呼ばれる部分を上下の唇で優しく挟まれる。

 キスの予行演習かのような優しいついばみ。

 それは次に何が起こるのかを想起させるには十分な感触であった。


「ちょっ、これ以上はまず――ッ」


 辛うじて喉奥から絞り出した言葉を封殺するように、美優ちゃんの両の手のひらが俺の両頬に添えられる。冷たく、白魚のようなほっそりとした指は俺から熱を奪うどころか、より一層体温が引き上げられていく感覚を覚える。

 顔も、身体も拘束され思うように身動きが取れない。ほんの少し手を下にずらせば首に手がかかってしまう。もちろん美優ちゃんがそんなことをするわけがないのだけれど、そんな状況に妙な背徳感を感じてしまう。


 しかし退廃的な感傷にばかり浸っていられないと未だ残る理性が叫ぶ。


 美優ちゃんが何を考えているかが未だつかめない。

 ここまできてもまだ、いつもの冗談の延長戦ではないかと疑う自分がいる。

 これほどまで直接的なを受けた記憶はないが、不意に抱き着いてきたり、手を握ったりというのはこれまでにも幾度か経験がある。そのたびに美優ちゃんはいたずらっぽい笑顔を浮かべていたことを思い出す。


 しかし今目の前にいる美優ちゃんはうっすらと笑みを湛えつつも瞳は真剣そのものであり、こちらを揶揄っている様子はない。


 そう、なのだ。

 本気と言ってもいい。

 けれど、それはどう考えてもおかしい。俺が記憶喪失で、実は美優ちゃんと付き合っていたみたいな事情でもない限り、やはり今の状況は起こりえない。


 ならば――彼女の真意を推理してみよう。

 何が彼女を本気にさせているのか。


 美優ちゃんは俺を揶揄っている?

 ――これはおそらくないと判断する。


 美優ちゃんは俺のことが好き?

 ――これもないと思う。それに、もし万が一それが事実だとしても、こんなやり方は美優ちゃんはとらない。それだけは断言できる。


 誰かに言われて俺を誘惑している?

 ――誰かって誰だよ。そもそも美優ちゃんが誰かの指示でをするわけがない。


 彼女は自分の意思でここにいる。加えて、先日の「本気を出す」発言を思い出す。

 そこから導き出される結論は一つだった。

 ――コナン君でなくても真相にたどり着けるくらい簡単な話だ。


「……悠くん」


 黙り込む俺の反応を果たしてどのように受け止めたか。

 美優ちゃんは俺の目を見つめたまま静かに顔を落としていく。

 漆黒の瞳に吸い込まれていくような錯覚。ああ、美優ちゃんはキスをするとき目を閉じないタイプなんだな、なんてことを思う。

 このまま止めなければ、きっと5秒も経たないうちに俺は美優ちゃんと口づけを交わすことになるだろう。


 しかし、こんなやり方は俺は望まない。

 美優ちゃんにとっても、この先はこんな形で進んでいい場所ではないはずだ。


「大丈夫だよ、美優ちゃん」


 俺は左手で優しく彼女の右肩を押し戻すと僅かにピクリと美優ちゃんの上半身が震える。

 残る逆の手を眼前30センチほどにまで迫っていた彼女の唇に押し当てて彼女の動きを止める。


「ありがとう。でも、俺のために、美優ちゃんがする必要なんてないんだよ」

「……」

「俺のトラウマ克服のためになんて、しなくていいんだ」

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