第39話

「……ハァ」


 唇に触れる手のひらの隙間から美優ちゃんの嘆息が漏れ聞こえる。

 強張っていた美優ちゃんの身体から力が抜け、ノロノロとした動きで上体が起こされていく。

 妖艶な雰囲気は掻き消え、いつもの美優ちゃんが戻ってくる。


「もうっ、いいところだったのに止めちゃうのねっ」

「そりゃ止めるだろ」

「あたしとキスするの、そんなにヤだった?」

「そういう問題じゃないって」


 いたずらっぽく笑う美優ちゃんが問いかけてくる。


 真相は、彼女から俺に対する一方的な『恋人ごっこ』であった。

 いや字面だけみるとマジで意味不明なのだが、これ以外にどう表現すればいいのかわからない。


 俺から聞かされた上郡の存在に対抗心を燃やした美優ちゃんは、自分が恋人役となることで、慣れによりトラウマを克服する作戦を思いつく。

 今回も、俺が少しでも女性への恐怖心を忘れられるように、女性と接することができるように、どうやら身体を張ってくれていたらしい。

 相変わらず発想が突拍子もない。


「いつも唐突すぎるんだって。もっとちゃんと説明しろっての」

「だって正面切って宣言してもあんた断るじゃない。なんだかんだって理由付けてさ」

「そう言われてもさあ、恋人のフリなんて黙って始めることじゃないだろ~」

「あんたってば、いっつも変な遠慮するんだから。なし崩し的に進めた方がそういう面倒な手間もないかなと思って」

「遠慮とかそういう問題じゃないと思うけどなあ」


 確かに、それが仮に従姉であっても、うら若きJDに対して恋人ごっこの相手役をお願いするというのは些か憚られる話ではあった。当然ながら、俺の相手を務める分の時間を拘束してしまうことになるわけで、それをお願いするのはさすがに忍びない。

 出来得ることならば、上郡との取引関係のように、常にWin-Winでありたいと思う。


「あたしとあんたの仲でそんなこと気にしなくていいってことよ」

「美優ちゃん……」

「だから今まであたしがこの家にお世話になったのもあたしは気にしてないから」

「それは気にしろよ」


 一応、定期的に現金を置いて行ってくれるので食費や酒代は多少賄えているが、基本的に掃除洗濯料理は一切しないのでトータルでみれば基本的にマイナスである。

 彼女が居候しているときに限って、お気に入りのお菓子や酒が神隠しにあったように消えていくのもきっと気のせいではないわけで、やっぱちゃんと気にしろやこいつ。


「でもさ、実際これってなかなかいいアイデアだと思わない? 女性への慣れもそうだけどさ、あんたに必要なのってリアリティだと思うんだよね」

「リアリティ?」

「あんたさ、女の子と付き合ってる自分を想像できる?」

「……それは」


 虚を衝かれた思いがした。

 正直に言えば、それは正しく図星であった。


 上郡と予行演習デートをしたときも、結月さんとのデートプランを考えているときも、どこか他人事のような感覚を拭えなかった。ふわふわと斜め上の浮いた場所から自分を眺めているような錯覚。

 自分自身を俯瞰できているといえば多少格好はつくが、結局のところ客観視と他人事は別物だ。


 誰かと付き合うというのは俺の中では白いキャンバスに描いた絵空事のようで、その中に自分自身の姿は映り込んでいない。

 俺はきっとまだ、本当の意味で前に進むことは出来ていないのだろう。


「あんたにとって、そういうことってまだまだ現実味がないんじゃないの。夢の中にいるうちはきっと最後の一歩を踏み出せない」

「……なんでそう言い切れるんだよ」

「あたしがだったから」


 あっけらかんと言いのける美優ちゃんの顔は晴れやかだった。

 それはつまり、彼女にも踏み出せなかった壁があったということ、そしてその壁を乗り越えたということ。

 俺の知らぬ間に彼女もそんな恋をしていたということだろうか。


 なぜだか胸の奥がチクリと痛む。


「……美優ちゃんは、どう折り合いをつけたの?」

「別に大したことはしてないんだけどね。ただ自覚をして、行動を変えた。それだけできちんと自分の気持ちに向き合えるようになるものよ、意外とね」


 美優ちゃんはそう、こともなげに言うが、その過程ではきっと様々な悩みがあったに違いない。

 そこまで考えたところで胸の痛みの原因に気がつく。

 どうやら俺は彼女に相談してもらえなかったという事実に傷ついているようだった。


 俺と美優ちゃんは姉弟とも親友とも、そして恋人とも違う、それ以上に深い仲を築いてきたと自負している。

 だからこそ、彼女に悩みを分かち合ってもらえなかったことに勝手にショックを受けてしまったのだ。これを形容するのであれば嫉妬という感情が最も近いだろう。


 存外、俺には俺なりに、独占欲があるらしい。あまりにも身勝手な考えに、ほとほと自分が嫌になる。

 美優ちゃんにだって悩みの一つや二つあって当然だし、男の俺に相談できないものだってあるはずなのに、その全てを話して欲しいだなんて傲慢極まりない。

 そんなこと、わかっていたはずなのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る