第2話

 文芸部の部室は図書館棟の中にある。俺が文芸部を選んだ理由の一つもこれだ。

 大学の図書館は中学や高校と比べ物にならないくらいの蔵書を抱えている。学術書から小説、漫画までありとあらゆるジャンルを取り揃えていた。寄付によるものも多いのだろうが、諸先輩方の血と涙の結晶がくひであり、ゆくゆくは自分の学費も費やされることになるのだろうから、今のうちに楽しまなければ損だろう。文芸部に顔を出すついでに適当な本を数冊借りるというのが俺の日常だった。

 バイトと部誌が忙しいこの時期はあまり借りられていないが、落ち着いたらまた覗きに行こう。次は推理小説でも借りようかな。


 図書館棟から外に出た瞬間、カラッとした熱い風が頬を撫でた。涼しい場所に長居していたからかすぐにじんわりと汗が滲む。夏は近い、どころかもはや夏だ。子どもの頃は夏休みに入らないと夏なんて感じなかったのに。異常気象のせいなのか、自分自身が年を重ねたからなのか、あるいはきっとその両方が原因なのだろう。

 目的地は図書館棟の側面に設置されている自販機群。ありとあらゆるメーカーの自販機が鎮座しており、飲み物には困らない。

 さて、どのコーヒーにしてやるかな。そんなことを思いながら角を曲がると見知った顔と遭遇する。


「あ、やっほー」

「おっす」


 結月実里ゆづきみのり、俺と同じく大学二年生で、これまた同じく経済学部を専攻している。文芸部の同期の一人で、誰とでも分け隔てなく接する明るいタイプ。穏やかな性格だが、ちゃんと冗談にも付き合ってくれる人柄で、部内の人気も高い。

 背中まで伸ばした艶やかな黒髪は今日はポニーテールにまとめられていた。輪郭がくっきりとわかる髪型になっており、すっきりとした目鼻立ちがより一層目立つ。少し眠たげにも見える垂れ下がった目尻にはじんわりと汗が浮かび、日本人形のように顔立ちが整った彼女もまた人間なのだと感じさせられる。


「講義終わり?」

「うん、ミクロ経済学が終わったとこ。難しいねえ、あの授業」

「あー、俺も一年の後期にとったわ。参考書と過去問まだ家にあったはずだから今度持ってくるよ」

「え、めっちゃ助かる! ありがとう!」


 そう言って彼女は自販機にお金を投入し、商品を選ぶ。出てきたサイダーを手に取ると「はいっ」と差し出してきた。


「これ前払いってことでヨロ!」

「サンキュ。来週の被ってる講義のどこかで持ってくるわ」

「ありがと~」今度はカフェオレのボタンを押下する結月さん。出てきた缶を掴み、カシュッとプルタブを開けながらこちらへ向き直る。「愛澤くんは文芸部行ってたの?」

「うん。原稿が修正必要って言われてて、ちょっと顔出して作業してきたとこ」

「え~、先週手伝ってくれてたのに自分の終わってなかったのかよ~」


 結月さんはカラカラと笑う。

 こんなどうしようもないことでも楽しそうに笑ってくれるのが彼女が人気たる所以なのだろう。その割には学内で浮いた噂を聞いたことはない。

 きっと俺の知らないどこかでよろしくやっているのだろう。こんな美人を放っておくほど世の中の男は理性的ではないはずだ。


「ね、部誌と新歓のお疲れ様会ってことでまた宅飲みしようよ!」

「んー、宅飲みねえ……」俺は思わず口ごもる。それをみた結月さんはぎゅっと眉間にしわを寄せた。

「えー、何その微妙な反応! やりたくないっていうの? 女の子から誘ってるのに、ひどいわっ!」


 さながら悲劇のヒロインのようにオヨヨと目元に手を当てる結月さんだが当然ながらそこに涙などない。


「いやさあ、宅飲みやるとマジで家が汚くなるのがヤなんだよねえ」


 大学近郊に下宿している我が家はもっぱら溜まり場となりつつあった。

 ありがたいことにそれなりに広い部屋を親が借りてくれたため、生活自体にストレスは感じないものの、たまに開く宅飲みが毎度のように荒れるので正直開催は気が重い。そう言いつつも毎回開いてしまうのだが。

 もちろん、結月さん筆頭に片づけを率先して手伝ってくれる人もいるにはいるのだが、翌日に残った酒の匂いや誰かがリバースした後のトイレ掃除などどうにもならない要素も多い。

 しかしそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、結月さんはぷんすかモードだ。


「そこはこの結月ちゃんが宅飲み参加することでトントンでしょ!」

「自分のビジュアル自覚してるやつはつえーや」


 収支トントンの開催は赤字に近いのではという疑問はさておき、結月さんほどの美人が宅飲みに来てくれるというのは非常に心揺らぐ要素ではある。ぶっちゃけ男連中オンリーの宅飲みは絶対にウチで開かせることはない。ヤツら、女子という歯止めが利かないと無茶苦茶しやがる。

 結月さんは文学少女然とした立ち居振る舞いに反してかなりアクティブなタイプであった。

 飲み会や部のイベントにも積極的に参加するし、このように宅飲みで男の家に上がり込むことにもあまり躊躇がない。


 狙っているのか自然なのかは測りかねるが、いずれにせよ彼女が参加するイベントは空気が和む。今や文芸部のアイコンと言っても過言ではないし、そんな彼女から宅飲みに誘われて嬉しくない男はいないだろう。

 事実、大いに動揺している自分がそこにはいた。

 心の天秤がシーソーのように揺れ動く。


「それとも愛澤くんは女の子ばっかりの宅飲みならいいのかな~?ん~?」


 結月さんが悪戯っ子のような笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。

 仕方ない、このノリに付き合おう。


「まあ~、それならアリ寄りのアリかな」

「いっそのこと愛澤くんちで女子会ってのもいいかもね~」

「俺はどこにいればいいんだよ」

「部屋綺麗にしたら鍵はポストに入れておいてくれればOKだよ」

「ウチはレンタルスペースじゃねんだわ」

「うそうそ! ま、日程はまた後日ね! 絶対やるから人集めよろしく~」


 言いたいことを言い切ると、俺の返事を待たずに結月さんは去っていった。

 人集めにきっと労力はかからないだろう。彼女が来る時点で断る人間なんてほとんどいないのだから。

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